hayatouriの日記

はやとうり の独り言

近江商人をご存知ですか?  その5

昨日の続きです。

 

「イシダ」は軽量機器メーカーでは有名です。

 

同社は企業理念に三方よしを掲げています。
 
現在の石田隆英社長によれば、「いつ頃から理念に取り入れたか定かではないが、祖父(重成さん)の時代にはあった」といいます。


隆英さんには父親の隆一さんから聞かされた、強烈に印象に残った話があるそうです。


50年ほど前の話だそうです。

 

それまでの尺貫法がメートル法に変わり、秤の規制緩和が行われ、秤の直接販売が可能になりました。


それまで同社は、代理店を通じた販売方法を守っていました。

 

しかし直販が可能になったことから大手メーカーが参入し、一気に売上が落ちて行きました。


それまで秤は同社の独占状態でした。

 

長年代理店も自分たちからお客様に出向かず、お客様から来るのを待っているような殿様商売をしていたのです。


当時社長だった祖父の重成さんは、この事態を打破すべく経営コンサルタントに相談しました。


コンサルタントはこう現状を分析しました。
 
「いま会社は断崖絶壁の淵にいる。抜本的に営業システムを再構築をしないと会社は潰れる」と。


コンサルタントが提示した抜本策は、代理店を切り、直接販売に切り替えることだったのです。


だが重成さんはこの提案を拒否しました。


「我々は問屋(代理店)、お客様を生かす三方よしの理念でみなさんと一緒にやってきた。このスタイルで改革に臨む」と。


これにコンサルタントは「代理店と共倒れになっても理念を守れますか」と迫りました。
 
すると重成さんは、「理念を守れないないなら、その結果、倒産しても悔いはない」と言い切ったのです。

 

(いや、強い決意ですね!)


当時25歳だった先代の隆一さんは、急遽営業部長に就き、改革の陣頭指揮を執りました。
 
同社の営業マンは全国の代理店を巡り、代理店の営業マンと一緒になってお客様を訪ねます。

求められた秤だけではなく、用途に合った商品を提案する営業スタイルを確立していきました。
 
手を切るのではなく、共に苦悩し、知恵を出し合い、汗をかくことで危機を乗り切ったのです。


いま同社では、隆英さんが月に1度の全体朝礼の場で、全社員に向けて理念から落とし込んだ行動規範に照らしながら、「三方よし」の考え方をわかりやすく伝えています。


同社では、この行動規範をベースにした賞を設け、上司や部下、同僚など周囲からのコメント付評価が多かった社員を表彰しています。


隆英さんによれば、会社には自ずと「三方よし」の考えや行動が根付いているといいます。


つづく
 

近江商人をご存知ですか? その4

昨日の続きです。

 

モラロジー(モラロジーとは、道徳科学の意で、モラル(道徳)とロジー(学問)からなる学術名称です)はこの2つを骨格とした科学として進展してきました。

 

廣池がモラロジーで展開する三方よしは、「自分よし」「相手よし」「第三者よし」です。


大野教授によると、近江商人三方よしの世間が、「買い手の背後に存在する他国の社会全体」を対象としているのに対して、廣池の「第三者」は、現代経営のマルチステークホルダーにあたるといいます。

 

(問題解決に対し企業や消費者、投資家、労働者、NPOなど、社会の様々な立場にある組織や個人が、プロセスに参加し、学び、協力し、それぞれの役割を果たすことが不可欠です。

このような課題解決の鍵を握る組織や個人を“ステークホルダー”と呼びます)


とかく経営者のなかには、三方よしの関係性を自社、顧客、株主の「三方」で構成する三角形で理解する人もいるが、実はそうでは無いのです。!(^^)!


大野教授はその解釈論は別として、三方よしは、十分現代にも通じる理念である言い、とくに三方よしの考え方で優れているのは、「世間よし」、あるいは「第三者よし」だと指摘します。


現代のサプライチェーンでは、とかく顧客重視経営が見られます。

 

顧客満足度を高める経営は、世間や第三者に過度な負担を押し付けかねません。
 
たとえば、良い品物を安く売ることが、仕入先や社員を苦しめることになり、結果品質を損ね、収益を損ねることに繋がっていけば、地域社会は潤わず、疲弊していきます。


とかく現代は目に見えやすい直接的な取引や短期の時間軸でビジネスを捉えがちです。

 

地球や社会がサステイナブルな発展を目指すのであれば、見えにくいステークホルダーをしっかり捉え、長時間の時間軸で事業を考える必要があります。
 

事実、見えにくいステークホルダーを捉え、長い時間軸で三方よしの考えを実践し、生き残ってきた企業は多くあります。
 
たとえば総合商社の伊藤忠と丸紅を起こした伊藤忠兵衛はその代表と言われています。
 
とくに伊藤忠は同じ伊藤忠兵衛からの暖簾を分けた丸紅より先に海外展開をして総合商社の足場を固めます。

 

そして海外でも三方よしの考えを貫き、事業を拡大しました。
 
伊藤忠ではいまも琵琶湖畔で新人研修が行われ、社会奉仕などを通じて三方よしの精神を学んでいます。


近江商人を先祖に持たない企業でも三方よしを取り入れ、経営危機を乗り切った老舗企業もあります。


創業120年を迎える京都にある計測機器メーカー「イシダ」その1社です。

 

 

つづく

 

 

近江商人をご存知ですか?  その3

 

昨日のつづきです。

 

近江商人と言えば、「商売は牛のよだれ」という格言でも知られています。
 
商いは利益を高く設定するより薄く広いほうが、長く商売ができるという例えです。
 
それのみだけでなく、公共性のほうに向かっていくのはなぜなのでしょうか?


藤野(その2に登場)さんは、近江一帯が持つ宗教的風土を挙げています。


「近江一帯は、昔から浄土真宗の信者が多い地域で、来世における極楽浄土を信じる者が多かったのです。


 なので現世での行いは本人が他界した後も後継世代にも影響を与えると考えられていました。

 

主が死んでも店が残りますから、その行く末というのはすごく不安を感じたのでしょう。


 死んだら後世の手助けはできない。
 だから神仏にお願いする。


 後世のためにしっかり残し、商いを継続させるために、社会奉仕や施しをするんです」(藤野さん)


もう1つは、浄土信仰の母体となった天台宗が説く「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」という自然に対する畏敬の念だといいます。

 

(この言葉の意味するものは、「山も川も草も木も、命あるものすべてに仏性がある。すべてが悟れるのだ」です。
つまり、悟りを得る能力のないものはいないということになります。)
 
藤野さんらは、「自然という大いなるものへの畏れが結果として近江商人コンプライアンス遵守や浮利を求めない経営姿勢を生んだ」と捉えています。


近江商人のほとんどの家訓には『薄利で商売をしなさい』とあります。
 
その一方で『安売りはいかん』とも言っています。
 
安売りせず、然るべき利益はしっかりもらいなさい。

 

そのために工夫した上で儲けすぎないというのが近江商人の基本となっているのです。


工夫、今でいう「イノベーション」はいつの時代にも求められるのですね。
 
長寿企業としての現代に残っている近江商人は、昔ながらのやり方を十年一日のごとく守ってきたのではありません。

 

日々のイノベーションの結果が長寿の歴史を築いたのです。

 

ところで「三方よし」という言葉じたいはいつ頃からできたのでしょうか。

 

実は三方よしの言葉は江戸時代にはまだなかったようです。
 
広まったのは、明治に入り大正を過ぎて昭和になってからだと言われています。


経済倫理を専門にしている麗澤大学経済学部教授の大野正英さんによれば・・・

 

三方よし近江商人の理念として登場するのは、「近江商人の研究者である故小倉榮一郎滋賀大学教授が1988年に出版した『近江商人の経営』が最初であり、それ以前には近江商人関連の文献には登場しない」そうです。


したがって「江戸時代の歴史小説などに『三方よし』が出てくるのは誤り」と指摘しています。
 
また三方よしという言葉自体は、昭和初期に麗澤大学創立者である廣池千九郎がすでに使用しているようです。


廣池は、江戸時代末期の1866年に現在の大分県中津市に生まれました。

 

地元で教員生活を送った後上京し、独学で東洋法制史という学問分野を拓き、東京帝国大学からは法学博士号を授与された人物です。


その後、大病をきっかけに道徳研究に入り、「モラロジー(道徳科学)」という概念を提唱しました。
 
廣池によれば・・・・

 

精神を重視した質の高い道徳を最高道徳とします。

 

最高道徳の実践による人間の品性完成の重要性を説きつつ、一方で道徳は経済と一体のものではならないとしているのです。

 

つづく


 

近江商人をご存知ですか?  その2

 

たとえば、東京日本橋に本社をおく繊維商社のツカモトコーポレーション

 

近江商人の流れを汲む企業ですが、江戸時代に近江を出て最初に出店したのが山梨でした。
 
その後塚本一族は東京に出店先を移して事業を営んでいましたが、明治末期に山梨を未曾有の水害が襲いました。
 
事態を知った創業家3代目の塚本定右衛門は、その復興緑林費用を拠出したのです。
 
定右衛門はこの時135haを造林しました。

 

一帯の山はいまでも「塚本山」として現在に至るまで、山梨県の見本林として保全され、優良なヒノキ、スギの生産地となっています。


ほかにも秩父に進出した矢尾一族は、現在の矢尾百貨店の基礎を築いています。

 

秩父では八尾百貨店は地域に根ざした非常に有名な会社です。
 
秩父一帯が飢饉を見舞った時に、八尾商店は酒造米を放出し、地元の人々に分け与えたりするなど「三方よし」の考えを貫き、地元に貢献しました。
 
明治時代、政府のデフレ政策で一帯が窮乏に陥り、これを背景に起こった秩父困民党の騒動が起きました。

 

一帯の金融業者が焼き討ちにあいましたが、同様に金融業を営んでいた矢尾商店は難を逃れているのです。

 

「地元のために尽くしてきた店だから、商売を続けていい」と暴徒化した秩父困民党に言われ、炊き出しの要請を受けたといいます。
 
矢尾百貨店は地域になくてはならない存在として、いまなお広く秩父市民に支持されています。


商人が地域の公益性を重視した活動をしてきたのは、近江商人に以外でも見られます。


たとえば観られた方も多いと思います。

 

映画殿、利息でござる!

 

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(余談ですが、羽生結弦がお殿様役で出てました!)

 

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私も観ましたが、実に面白い映画です。

 

このモデルとなったのは仙台藩、吉岡宿の造り酒屋・両替商の浅野屋です。

 

浅野屋は、重税などで疲弊していく宿場町一帯の町民、村民を救わなければならないと私財を元に仙台藩に貸付をします。

その利息で宿場町の復興を実現しています。

 

藩に金を貸して利息を取るという発想がすごいですよね!(^^)!
 
浅野屋は地元民にとってはがめつい両替商とみなされていましたが、それは地域に飢饉や災害などの不測の事態のために、準備していたからなのです。
 
そのことを知った地元の有力者たちも限りある私財をなげうち、貸付のための元手としたのです。

 

この辺りの経過も映画の中で詳しく描かれていますので興味のある方はぜひご覧ください。


こうした例は、おそらく全国にあったでしょう。

 

しかし近江商人の公共性に対する意識は他の商人に比べても高かったようです。


滋賀県同友会の副幹事を勤める藤野商事の社長の藤野滋さんらは、現代に至る代表的商家の38社の家訓を調べました。

 

近江商人に関して、特徴的なことがわかったといいます。

 

「公共性」と「利潤」はわかりやすく言えば相反する2つの性格を持っています。

企業は公共性を強めれば、利潤が低下することになりますし、利潤追求を進めれば公共性が低下します。


一般的に企業は、利潤も公共性も低い第一領域から始まります。

 

そして成長するに従い利潤の高い(しかし公共性はあまり高くない)第二領域に向かいます。
 
次に利潤も公共性も高い第4領域に向かっていくのです。

 

日本の大企業も昔は個人商店からスタートしていたことを考えればわかりやすいかと思います。
 
しかし家訓からみる限り、近江商人は第二領域から第4領域に向かうのではありませんでした。

利潤が低く公共性の高い第3領域に向かっていくことがわかったのです。


 

つづく

「近江商人」をご存知ですか? その1

 

最近世界中から「近江商人」とその商いの仕方が注目されています。

 

時まさに持続可能な発展が求められる社会となっていますが、どうやらそのお手本になっているらしいのです。

 

このことについて調べてみました。

 

近江商人は、現在の滋賀県一帯に住んでいた商人たちのことをいいます。

 

中世から江戸時代にかけて、北は北海道から南は九州まで天秤棒を担ぎながらめぐり、それぞれの地場商品を売買する「諸国産物回し」を展開した人たちを指します。
 
出身別に高島、八幡、日野、湖東の商人に分かれ、得意とした商品や活躍した時期なども微妙に違います。

 

しかし、その多くが行き先で信用を得ながら、事業を脈々とつないできたのです。

 

時代が下るにつれてその地で店を構えて商いをする者も出てきました。


その商売人としての姿勢を表した言葉が

 

「売り手よし」

「買い手よし」

「世間よし」

 

の「三方よし」という考え方なのです。


商いは基本的に売り手と買い手の合意で成立するのですが、そこに「世間」という概念を加えていることに近江商人の特徴があり、先見性があったと言われています。


当時は生産から流通、消費はその藩で帰結させるのが経済の基本でした。
 
そこによそ(他国/他藩)から来た商人が、稼いだお金を自分の国(藩)に持って帰ることは、その藩として面白いはずがありません。
 
当然よそから来た人を排斥しようという圧力が掛かります。


ですから、その地域の方に受け入れてもらえる商いの方法を考えたのです。
 
自分のことだけを考えるんじゃなく、他国(他藩)に行ったら余計にその場所のことを、気持ちを汲み取って商売をしなさいということなのです。
 
また近江商人たちは粗悪なものを売ってはだめ、高く売ってはだめですよ、というような商いをしました。

 

まさにグーバル時代の現在に通じる商売姿勢ではないでしょうか。

 

近江商人はさらに地域に積極的に貢献していきました。

 

その貢献の様子を次回は見ていきたいと思います。

 

つづく

 

知ってるようでよく知りませんでした。ツバメの話  その4

テレビや映画でお馴染みの宮本武蔵


ライバルの佐々木小次郎が「秘剣ツバメ返し」を武器に宮本武蔵と戦います。


颯爽と風を切りながら飛ぶツバメを長刀(俗称:物干し竿)で切り落とすというのですから、並大抵の剣の使い手ではありません。


では実際のツバメの飛ぶ速さはどうなのでしょうか。


ツバメは、平均時速40~50kmの速度で飛ぶといわれています。
 
最大速度は、200kmに及ぶスピードで飛ぶ事ができます。
 
渡で飛んでいる時は、太陽の位置を目印にしています。
 
明るい昼間のうちに飛んで、太陽の位置で方角を決めて飛びます。


山並みや海岸線など特徴的な地形に沿って飛んでいき、しっかりと記憶をしていると考えられています。
 
ツバメの卵は、約18~19mmです。
 
黄色っぽい白色をしており、茶色の斑点模様をしています。
 
この斑点は、全部の卵が違う斑点になっており、親鳥が自分で産んだ卵を確認するためだと考えられています。


産卵時期は4~7月ごろで、年に1~2回産卵します。


産んだ卵はオスとメスで交互にあたため、約13日後にふ化します。
 
生まれたヒナは、オスとメスで分担して育てますが、メスの分担率が90%とかなり多いです。
 
泥や枯葉を使って民家の軒下など、人が生活する場所に巣は作られます。


時期的には、水田に水が入れられた頃から巣作りが始まります。


水田の泥が格好の建築材料なのです。


人間の近くに巣を作るのは、カラスなどの外敵に襲われないようにするのが目的です。


ツバメは一度作った巣は覚えていると考えられ、翌年にまた同じ巣に戻ってきて再利用します。


古い巣が壊れている時は、1~2日で修復をして子育てをします。


ツバメのヒナはふ化をすると、親に餌をねだります。
 
親鳥はハエやとんぼ、アブなど空中を飛ぶ昆虫をとらえてきてヒナに与えます。
 
皆様もよくご覧になったように、生きた昆虫をヒナに届けるために、親鳥は何度も往復をしてヒナを大きく育てます。

20~24日すると、ヒナはとても大きく成長します。

成長すると巣離れをし、二度と巣には戻りません。
 
しかし、まだ一人前に餌を取れないため、巣立ったばかりのヒナは電線などで親鳥から餌をもらい成長します。

2週間ほどすると一人で餌を取る事ができるようになり、兄弟たちと渡りの時期までは一緒に暮らします。

 

ここで少し脱線します(いやいや、脱線させてはいけないお仕事の話なんですが・・・)。

ツバメをネーミングにしているチームといえばヤクルトスワローズ

なぜツバメなのでしよう?

もともとヤクルトスワローズの前身は国鉄でした。

当時ネーミングを考え始めた頃に特急電車「つばめ号」がありました。

 

これでいこう!

 

これがスワローズの誕生の瞬間でした。

少々長くなりました。

 

これでツバメの話を締めくくりたいと思いますが、最近の環境変動や地方の都市化が進む中でツバメの数も減少していると言われています。

 

環境問題はその多くの責任が私たち人間にあります。

私たち人間には、多様な生物との共存ができる環境を残す責任が問われています。
 
 

知ってるようでよく知りませんでした。ツバメの話  その2

昨日の続きです!

燕はなぜ日本に渡ってくるのでしょう?

春の日本は南より寒い地域ですが、南の暑い環境では散った葉や倒れた木が微生物によって分解されてしまいます。
 
土になる前に分解されてしまうので、熱帯雨林などでは土壌が痩せてる所ばかりです。


しかし、寒い地域では、散った葉や倒木が分解されにくいのです。
 
低い温度によって有機物を分解するため微生物の増殖が制限されます。
 
分解されず地表に積もった有機物は、肥沃な土壌を作ります。
 
冬が終わり春をむかえると、地表の有機物は豊かな栄養源となり大量の虫を発生させます。
 
まさにツバメにとって好環境であり、子育てに適した地域となるのです。
 
繁殖のために虫を求めて北へと飛んできます。渡りをするのは、寿命を延ばすためでしょう。

 

通常ツバメは、日本が冬の時は暖かい地方へ渡ってしまいます。

 

しかし、中には歌謡曲の題名では無いですが温暖化の影響で越冬する「越冬ツバメ」がいるようです。

 

軒下などにねぐらを作って冬を越します。

 

夜になって気温が下がると身を寄せ合って、温めあって生活をしています。

 

越冬ツバメについては謎が多いですが、シベリアから来たツバメではないかと考えられています。

 

冬はとても寒く餌も少ないため、寿命が短く中には死んでしまうツバメもいます。

 

ツバメは日本が冬の間はマレーシア、ベトナム、フィリピン、インドネシアなど暖かい地方に生息しています。

 

ツバメの体温はとても高いので、寒い地域ですと命を落とす危険があるからです。

 

少しでも寿命を延ばすために、渡って生活をしています。
 
春になると見ることのできるツバメは、日本で生まれたツバメではありません。 

 

日本が冬の間に暖かい南の地方で繁殖をして、北半球が夏になると日本へ渡ってきます。

 

2000~3000キロほど離れた暖かい地域で育ち、日本までやって来る身体能力をもったツバメは素晴らしい鳥だと言えるでしょう。

 

 

つづく