昨日の続きです。
死期を察した幡男は、家族に宛てたノート15枚にも及ぶ遺書をひそかに仲間たちに託します。
しかしそれは非常に危険な挑戦でした。
収容所からは文書を持ち出せない決まりがあり、見つかって帰国が取り消された例もありました。
なぜなら、ソ連はこの収容所の実態が外部に漏れることを非常に恐れていました。
そこで仲間たちは、驚くべき方法で遺書を届けようとします。
その驚くべき方法とは?
ぜひ映画の中でお確かめいただきたいと思います。
その「遺書」を託された仲間たちが日本に戻り始めます。
そしてそれぞれが妻モジミのもとを訪れます。
「遺書」を妻に届けていくシーンは本当に涙なくして見ることができないシーンです。
まさに涙腺崩壊状態です。
収容所では文字を書き残せず、家族と無事を伝え合うだけのはがきですら厳しい検閲を受けていました。
ハバロフスクのラーゲリで幡男は、俳句や日本の古典、落語まで教えています。
これは映画でも描かれています。
「みんなで帰国する日まで美しい日本語を忘れぬように」という願いもあったといいます。
収容所の中では飢えや寒さだけでなく、文字を奪い、思想さえ統制しようとする非人道的な仕打ちが続けられていたのです。
では、どうしてそんなひどい仕打ちが行われたのでしょうか。
悲しいことに「終戦の日」は第二次世界大戦の戦闘が止やんだ日ではありません。
まだまだ戦闘は続いていたのです!
ポツダム宣言を受け入れると国民に知らしめたのです。
しかし、日本が降伏文書に調印したのは9月2日。
東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われたその日です。
しかし国際的には、その日まではまだ交戦状態にあると捉えることもできたのです。
8月9日に満州(中国東北部)に攻め込み対日参戦したソ連軍は15日以降も軍事行動を止めていません。
18日未明には千島列島の北端の島で上陸作戦を始めます。
日本軍守備隊と「開戦」しているのです。
8月15日以降にですよ!
ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)は占守島から南下し、北海道の北半分を占領する計画を立てていました。
それゆえにソ連軍は容易に北海道北部を占領できると考えていたようです。
しかし陸軍中将・樋口季一郎(1888~1970)は独断で「断乎反撃せよ」と命じたのです。
激しい戦いが繰り広げられました。
守備隊の奮戦で 出端(でばな)を 挫くじ かれたスターリンは、北海道占領を断念せざるを得なくなりました。
占守島では8月21日に停戦協定が成立し、日本兵は23日に武装解除し武器を手放しました。
ところが苦難はまだ終わりませんでした。
つづく