最近どこへ行ってもそうなんですが、特に役所とか銀行とかでしょうか。
「ご本人を証明する書類を何かお持ちですか?運転免許書とかマイナンバーカードとか?」
なんてよく聞かれますよね。
本人が来ているのだから本人に間違いないのですが、お金を払い出したり書類を出したりする側からすると心配になるのでしょうね。
田舎の郵便局なんかだと、長い付き合いで窓口に来ている人が誰だかすぐにわかりますよね。
「あ、こんにちは!○○さん!」
と返事をした窓口の担当者の方が途端に変わってしまいます。
「いや、決まりなんで仕方がないんですよ、何か本人を証明する書類をお持ちですか」
て、不思議な話だと思いませんか?
つまりここにいる「本人」より何かの「記号や番号」が本人に成り代わってしまうのです。
余りに経済性、合理性、効率性を追い求めるとこうなっちゃうんです。
例えば私について考えてみます。
私しか知らない過去の記憶や私の感性、私の感情、知識、長所や短所や怒りや悲しみ、「私」という人間に付属する多種多様なすべてのものを含めて私という「本人」ですよね。
つまり私は「いびつな多面体」というわけです。
しかしこのような人格を番号やQRコードなどの記号に変化させたとき、私という多面体は一体どうなるのでしょうか?
現代風にコンピューター的に考えればこれらは『noise』(雑音)として扱われてしまう可能性があります。
以前のブログにも音楽鑑賞する際、CDとライブは何が違うかと書いたことがあります。
端的に言えば、人間は五感を持っていてその全てで「音楽」を雑音も含めて体感できるからライブが必要なのです。
『noise』を削ぎ落としてとしていく事は、少し難しい話になりますが人間と自然との乖離を大きくしてしまうことになります。
例えば会社なんかでも、同じ部屋で同じ部署にいるのに直接話さない。
人間という生き物から考えればこれは不自然ですよね。
すぐそばにいるのにメールでやりとりをすることなんてしょっちゅうです。
この時点で既に「人間」そのものがnoiseとなっている可能性があります。
必要なのはメールであってその人物ではないのです。
なので反対に、経済性・合理性・効率性を最も求めてはいけないのが教育であるともいえます。
指揮者のレナード・バーンスタインがあるインタビューでこう答えていました。
バーンスタインの教え子たちが素晴らしい音楽家に育っているというアナウンスがありそのコツを教えて欲しいというわけです。
それに対してバーンスタインは
「例えばあなたが花の種を植えたとしましょう。肥料をあげ水をやりお日様に当ててしばらくすると小さな芽が出ました。あなたは早く大きくしようとその花の芽を引っ張りますか?」
と答えたのです。
人間自身も1つの自然です。
これからますますその「自然」を大切にしなければならない時代に入ってこようとしています。