皆さんは五右衛門風呂ってご存知ですか?
簡単に言ってしまえばお湯のみみたいな形のでっかい鉄の風呂釜です。
下の図では長州風呂をこの辺りでは五右衛門風呂と呼んでいました。
安土桃山時代の大泥棒の石川五右衛門が処刑されるときに、親族も含めこういった形の風呂で油で煮て殺されたという言い伝えがあります。
場所は京都三条河原でした。
五右衛門風呂の作りはいたって簡単で下から炊き上げるわけです。
そのまま入ると足の裏が火傷するので、木のすのこを1番底に沈めてその上に乗るのです。
それでも鉄ですから熱が伝わります。
背中なんかも不用意にもたれるととても熱かった記憶があります。
当然1人入ればそんなに隙間もありません。
誰かが入ればお湯の温度が下がります。
誰かが外でお湯を温めるために木を焚べる必要があります。
中と外でお湯加減を確認しながら火を多くしたり少なくしたりとそれはそれで味わいのあったものです。
ところがこの「風呂焚き」が日常のことになるとそれはなかなか大変です。
なので、こういった仕事は大概子供のほうに回ってきます。
とりあえず水道で風呂いっぱいに水を入れ、フタをします。
それから外に出て火を起こしていくのですが、当時は着火剤的なものとして、おがくずに灯油を湿したものを用意していました。
それを少し焚き口に落としてマッチで着火。
火の起こり具合を見ながら用意していた木材の切れ端などを放り込んでいくのです。
個人的にはこの風呂焚きが大好きで、何やら無の気持ちになって一生懸命やったものです。
当時私の家の付近では製材所がたくさんありました。
角材を作ったりすれば、その端材がたくさん生まれます。
それを地元の人は「端場」(タンバ)と呼んで、製材所で勤務した人たちなどは、ほぼ無料でそれらをもらうことができました。
それらが風呂焚きの材料なのです。
木を燃やすと当然やけ炭が残りますが、今度はそれらも大事に取っておきます。
なぜなら、七輪で魚を焼く時などとっても良い燃料になるからです。
あと1つ、当時は「もらい湯」というような、なんといいますか助け合いみたいなところがありました。
お風呂もやっぱり毎日沸かすのは大変ですし、水道代もかかります。
ご近所同士お風呂沸かす日を決めて、交代で他人様のおうちでお風呂をいただくのです。
今だったら「え〜〜!」というような感じですが、当時お風呂場は母屋の外に独立して建っているところがほとんどでした。
なので、ご近所の家の中に入り込んでお風呂をいただくわけではなかったのでそういうことができたのでしょう。
ただ五右衛門風呂は湯量が少なく、ずいぶんお湯を使わないように気を使った記憶があります。
だって追い焚きするのにまた火を起こさないといけないからです。
昔は男の人から順番に入って、女の人が最後の方だったような記憶もあります。
今ではもう考えられないことですけどね。