昨日のつづきです。
幸いにも患者、職員にも人的被害はありませんでしたが、震災当日は患者も職員もろうそくの炎の下で食事をせざるを得ませんでした。
肝心の透析設備は、自家発電機の稼動、給水車の手配の上に、治療に必要な部品確保に動き回った結果、震災当日に透析機械の試運転に成功しました。
翌12日には、「透析可能」な状態に復旧したといいます。
木村氏は、電気とガスの備えが功を奏したことを強調しました!
同病院では、非常事態に備え、大容量の自家発電設備を設置していました。
これにより、照明だけでなく、人工透析も継続できる能力を確保していました。
また、ガスは、災害を想定し、10年前に都市ガスからプロパンガスに変更していました。
このため都市ガスの供給途絶による影響を受けることなく、震災翌日から温かい食事を提供することができたのです。
「阪神淡路大震災、新潟中越沖地震の教訓、さらには宮城県沖地震の体験を踏まえて、地震対策を積み重ねてきたことが、今回の大震災で十分に生かされたと感じる」と木村氏は語ります。
日ごろから地域の透析医療の最終拠点病院を目指して活動してきた同病院は、震災直後からその真骨頂を発揮することになりました。
当然のことながら震災当日の夜半、県内の透析患者が同病院に押し寄せ始めます。
この時点では、他施設との連絡がつかず、孤立無援状態での震災対応が始まりました。
多くの透析施設が被災し「透析難民」が続出することを予測した病院は、震災翌日早朝から、ラジオを通じて
「24時間体制で透析を行っています」
「すべての患者さんを受け入れます」
と呼びかけました。
透析病床63床は、3月12日朝9時から3月15日昼の12時まで、夜通しで稼動し続けました。
当日に302人、翌日に424人と続き、震災からの1週間で延べ1759人に透析を行っています。
現場スタッフはほとんど寝ずの対応をし、彼らの献身的な活動がなければ、決して乗り越えられなかったに違いありません。
他施設の透析医療が復旧し始めた3月16日からは、夜中の透析は中止。このころから患者数も日に142人、129人、134人と落ち着いていきました。
震災1週以降は、体調を崩した透析患者が緊急搬送され、そのまま入院となる事例が目立ったといいます。
木村氏は、震災後の生活が過酷だったことがうかがえると指摘します。
つづく