hayatouriの日記

はやとうり の独り言

少年野球から野球そのものを考える  その4

 

昨日の続きです。

 

 

どうしてこのようなことが平然と行われてきたのか?


これを考えるにあたっては、実は日本野球の歴史から入らなければなりません。


飛田稲洲(とびたすいしゅう)という人物がいました。


彼は1886年(明治19年)生まれで、早稲田大学に入学して野球部に入ります。


1919年(大正8年)には早大野球部の監督に就任しその後は朝日新聞の野球記者として活躍します。


西洋伝来のベースボールを「野球道」と日本的に解釈して後の野球界に極めて大きな影響を与えることになる人物です。


「一球入魂」という言葉は彼が作り出しました。


当時の飛田は「学生野球は教育の一環である」と考えていました。


だから試合よりもまずは練習に臨む姿勢が大事だと言っています。


彼はこれを「練習常善」という言葉で表しています。


「千本ノック」のような猛練習があってこそ本当に実力が備わると説きました。


「野球道」すなわち、ただ勝てば良いと言うのではなくその行為を通じて自己の精神の修練を行い、そして事物の本質に迫ろうと「道」としたのです。


これは茶道や武道などと共通した概念となりました。


時あったかも富国強兵が叫ばれる中、野球は敵国スポーツとして軍部に弾圧されます。


一方ラグビーは弾圧されませんでした。
それは合計30人がグランド上で激しくプレーをする戦意高揚にぴったりのスポーツだったからです。


それに対し野球は最大でも18人しかプレーできず試合時間も長い、そして運動量の多いスポーツではありません。


戦時中の鍛錬と言う意味から考えると決して効率の良いスポーツではなかったのです。  

 

ですから野球はバッシングの対象になりました。


日本職業野球連盟が設立されたのは1936年(昭和11年)でした。


ところが太平洋戦争の影響で選手たちが召集され、1945年にはプロ野球の一時休止が発表されます。


この時代、実は飛田は野球に対する弾圧と戦い続けていました。


彼はこのような文章を残しています。


「その野球精神は一言にして言えば、死の練習によってつちかわれる。

野球の場合、母校愛を強調する事はとりもなおさず国家愛を教え得るものであり、一致団結の団体精神は、一丸となって敵にあたるの心意気を示唆し、犠牲的精神は、喜んで国難に殉ずべき暗示を与えるものに他ならぬ」

 

 

 

つづく