hayatouriの日記

はやとうり の独り言

平和であってこその天気予報  その2

 

昨日からからの続きです。


この頃すでに米軍が全局面で優勢に立っていました。

 

昭和20年7月29日から8月2日に大型で非常に発達した台風が沖縄本島を通過しました。

 

沖縄周辺に密集している米軍に対して元寇時のような神風になるのではと期待されました。
 
しかし、米軍の飛行機による台風監視が行われており、台風は神風にはなりませんでした。
 
終戦直前の米軍は、飛行機による気象観測結果を暗号を使わずに送信していたのです。
 
「(日本軍は)この送信を傍受し、天気図に記入して利用していた」と当時の気象観測に携わった人が証言しています。
 
気象観測結果を暗号なしで送信するということは、飛行機の位置が相手に知られてもかまわないということを意味しています。
 
このことは日本付近の制空権をアメリカ軍が完全に握っているということの証明なのです。
 
それを記入していた気象関係者の心情はいかほどだったのでしょうか。
 
終戦直前になると,アメリカ軍は頻繁に飛行機で飛来し気象観測をしていました。
 
なので自国民を自然の猛威にさらしてまで実施している日本の気象報道管制は意味をなさなくなっていました。
 

さて真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月7日(日本時間では8日)の日曜日の朝7時過ぎ、ハワイ・オワフ島では多くの軍人は週末の朝を楽しんでいました。
 
一方、航空母艦赤城を旗艦とし、6隻の空母を従えた日本海軍の機動部隊は、現地時間の午前5時30分にホノルルから約230マイル北に来ていました。
 
そこから飛び立った、淵田中佐を隊長とする第1次攻撃隊は、高度2,000m付近にある厚い雲の中や上を、パールハーバーに向けて飛行中で、海面を見ることはできませんでした。


淵田隊長はパールハーバーにあと1時間ほどのところで、レシーバーを耳にしてラジオ方位探知機のスイッチを入れ、ダイアルを回すと、ホノルルの放送局の受信に成功しました。
 
そのうちラジオは朝の気象情報の番組に変わりました。
 
オアフ島の天候は半晴で、山の上には雲がかかっているが、雲の底の高さは3,500フィート(約1,000m)、視程は良好で、北の風」と放送がありました。

もちろん放送は英語ですから、これを理解した淵田隊長のヒアリング能力も高かったと想像できます。
 
これで淵田隊長は攻撃隊にとって好都合な気象情報だと判断し、最初の爆弾が午前7時55分に投下されました。


このように気象情報や天気予報は重要な戦略情報なのです。


一方戦争中、日本人の生活は物資の不足でだんだんと大変になっていきました。
 
天気は毎日変化します。台風や嵐もお構いなしにやってきます。
 
多くの国民が情報不足で苦しんだ中、ついに終戦の1945年8月15日を迎えることになりました。
 
ラジオの天気予報番組の再開は8月22日で、東京から再開されました。
 
今では当たり前のように、毎日ラジオ、テレビや携帯電話で見ることができる天気予報や気象情報。

 

しかし歴史をひもとけば、この天気予報や気象情報こそ平和の象徴であるともいえるのです。