昨日の続きです。
そしてこの物語はまず、庶民の文化であったことです。
また、それは庶民だけではなく、男女や身分も関係がありません。
太古より熊野は貴銭(きせん)、浄、不浄を問わない、誰にも開かれた場所で聖地であったのです。
そして、小栗の物語は全国の広い範囲の地域で残っています。
また基本的なところを残しそれぞれスケールの大きなストーリーとして発展してきています。
関東から熊野に至るという地理的なスケールの大きさもあります。
また湯峰のつぼ湯で復活したというこの物語には、この世からあの世が描かれています。
この世とあの世の越えるスケールの物語、まさに映画にもなりそうな大スペクタクルです。
そして庶民の情感をうまくとらえています。
説教めいたところがないという事も多くの人々に受け入れられた理由のひとつではないでしょうか。
ただそれだけではこれほどの物語の普及は考えられません。
なぜこの物語が全国に広がったのでしょうか。
その役目を果たしたのは、熊野比丘尼(びくに)と言われています。
熊野比丘尼(くまのびくに)とは、熊野三山に属した僧形の女性仏教宗教者です。
熊野比丘尼が活動したのは戦国時代の頃から江戸時代にかけてです。
荘園を失い、参詣者も減り、経済基盤が揺るぎだした熊野三山の運営資金を集めるために熊野比丘尼は諸国を巡り歩きました。
熊野比丘尼は、毎年年末から正月にかけて熊野に年籠りし、伊勢に詣でたあと、諸国を巡ります。
熊野信仰を布教し、熊野牛玉符(くまのごおうふ)や梛(なぎ)の葉を配って、熊野三山への喜捨を集めました。
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その際に、天上界、地獄、餓鬼、畜生、六道などが描かれた絵図を使いました。
(当然のことながら、当時の民衆は読み書きなどできようはずがありませんから、これは大変良い方法でした)
人間が生まれて死んでいくまで、また死後の世界と救済を語り聞かせたと言われています。
当然小栗判官と照手姫の物語も語り伝えられたと考えられます。
このように小栗判官と照手姫の物語や熊野信仰は日本中に広がっていくのです。
もちろん今から考えればこういう物語は絵空事と思われるかもしれません。
しかし当時の人々は苦しいことが多く幸薄い人がほとんどでした。
その人たちが「自分たちの周りでもあるいは起こり得るかもしれない」と願い語り継いできた物語でもあります。
今回で「小栗判官と照手姫の物語」は終了となりますが、皆さんもしばしこの物語の余韻に浸っていただければ幸いです。