昨日の続きです。
スターリンは日本軍が武装解除したこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出したのです。
この命令によって、千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行されました。
銃剣を突きつけ、時には「日本に帰れるぞ」と嘘をつき、日本人を列車に詰め込んだのです。
その列車の行き先がシベリアだったのです。
その1割、少なく見積もっても約5万4000人が過酷な労働や食糧不足で死亡したとされます。
シベリアへの抑留は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反したものです。
しかし、このソ連の対日参戦の裏には、昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談で米英とソ連が結んだ密約がありました。
「ヤルタ会談」とはヤルタ(ウクライナ,クリム半島の港湾都市)で行われた,アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・ソ連首相スターリンの3首脳会談です。
ドイツの分割管理、国際連合設立などが話し合われ,ヤルタ協定がむすばれました。
また秘密協定として,ソ連の対日参戦と千島列島領有などがあらかじめ決められていたのです。
もう少し詳しく見てみましょう。
日本は1944年(昭和19年)3月30日、北樺太に関する条約の締結によりオハ油田の権益をソ連に譲渡しました。
しかしスターリンは12月14日、アメリカのW・アヴェレル・ハリマン駐ソ連大使に対して
②樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求します。
ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないと判断しました。
スターリンは1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、日ソ中立条約を一方的に破棄します。
さらに8月8日に対日宣戦布告、8月9日に戦闘が開始されました。
映画の冒頭のシーンはこの時期のものであると考えられます。
このように、ソ連の参戦は予め、イギリスとアメリカとソ連により周到に準備された結果だったのです。
また、スターリンはそれ以前から日露戦争や日本のシベリア出兵への“報復”を考えていたとされます。
つまりは、個人的にも日本に対する恨みを持っていたのです。
では、なぜスターリンは50万人にも及ぶ日本の将兵の抑留を命じたのでしょうか?
そこには第二次世界大戦を通じて、ソ連の抱えていた大きな問題がありました。
日本兵50万人の抑留を命じた最大の目的は、第2次世界大戦の影響で遅れていた極東開発を進めるためだったのです。
つづく