昨日の続きです。
ナチス・ドイツとの戦いでソ連の国土は荒廃し、多くの兵士を失って復興を急ぐための労働力が不足していました。
その当時、ソ連の戦死者数は1450万人と言われていました。
ドイツの280万人、日本の230万人と比べてみても、ずば抜けて大きな被害を被っていたわけです。
抑留の秘密指令はソ連の北海道北部占領を米国に拒絶された直後に出されています。
アメリカは、今後の日本への影響力を考えて北海道北部をソ連に占領させる事はしませんでした。
スターリンは抑留者の労働力を北海道北部領土に代わる“戦利品”と捉えていたようです。
抑留者はソ連全土の1200か所のラーゲリに送り込まれました。
ラーゲリはシベリアだけでなく、カザフスタン、ウズベキスタンなど中央アジア、さらにヨーロッパに区分されるウラル山脈の西にもありました。
想像してみてください。
短期間に60万人もの人を割り振るのは簡単ではありません。
すなわち、抑留計画は対日参戦のかなり前から計画されていた可能性が高いのです。
一方で、この時点で抑留者の数はスターリンの指令より約10万人も多くなりました。
収容所設置が間に合わず、日本将兵が現地に着いてから収容所そのものを建設した例もあったようです。
平和祈念展示資料館学芸員の山口隆行さんは「抑留者が計画より10万人も多くなって食料が不足した上に、抑留後の最初の冬がすごく寒かった。寒さと飢えで亡くなった方は、抑留初期に特に多かった」と語っています。
思い返せば、ソ連軍が進行してきたのは8月です。
日本の兵士の服装は当然夏服ばかりです。
シベリアの冬の寒さに全く耐えられるものではありませんでした。
改めて書きますが、ソ連の行為は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言や、捕虜の扱いを定めた国際法に違反です。
しかも、抑留者は日本軍将兵だけでなく、未成年者や民間人も多く含まれていました。
映画ではこの点についても触れられています。
足が不自由で兵役を免れた漁師の青年も、船が拿捕されてシベリアに共に抑留されたことが描かれています。
連合国軍総司令部(GHQ)の下で外交権を失った日本政府はソ連に抑留者の扱いや帰還について直接何も言えませんでした。
ソ連は中立国を通じた日本政府の非公式な要請にも応じませんでした。
昭和21年(1946年)には「抑留者を1か月に5万人ずつ日本に帰還させる」ことで米ソが合意し、引き揚げ船による送還が本格化するはずでした。
しかし、ソ連は冬の海の結氷などを理由に送還を遅らせ、帰還者は月5万人の半分にも満たなかったのです。
つづく