hayatouriの日記

はやとうり の独り言

『ラーゲリより愛をこめて』 その5

 

昨日の続きです。

 

ソ連からの抑留者の帰還は遅れ続けました。

 

ソ連は形ばかりの審理で抑留者の一部を戦争犯罪人としました。

 

強制労働という刑罰を科しているという理屈をつけて抑留を続けてたのです。

 

ロシア語を話し、満鉄調査部員でハルビン特務機関でも働いていた幡男はソ連に対するスパイ行為を続けていたと見なされ戦犯とされました。

 

戦前に左翼運動に参加したこともある「ロシア 贔屓(びいき) 」で、スパイというのは完全なぬれぎぬでした。

 

しかしぬれぎぬを着せるにはもってこいの経歴だったことが災いしたのです。

 

昭和25年(1950年)には、ソ連側が「戦犯関係で調査中の者などを除いて、昨年で捕虜の送還は完了した」と一方的に発表しました。

 

日本は国際連合に実態調査を求めるますが、同じ年に朝鮮戦争が勃発すると、抑留者の問題は脇に追いやられてしまいます。

 

このことは映画の中でも取り上げられています。

 

サンフランシスコ講和条約に反対したソ連は、日本の独立後も国連加盟に拒否権を発動するなど厳しい対日姿勢を崩そうとはしませんでした。

 

昭和28年(1953年)には朝鮮戦争が休戦となり、抑留を命じたスターリンが死去しました。

 

止まっていた引き揚げも日ソの赤十字社によって再開されましたが、戦犯とされた抑留者の「総ざらい引き揚げ」は実現しなかったのです。

 

昭和30年(1955年)には日ソ国交正常化交渉が始まりました。

 

日本側は抑留者の早期帰還を求めましたが、その交渉も暗礁に乗り上げてしまいます。

 

ソ連側が「残っている抑留者はすべて戦犯で、特赦を受けないと出国できない。特赦の決定には平和条約の締結が必要だ」と主張したからです。

 

平和条約の締結は日ソ国境の画定が前提となります。

 

勝手に抑留者に戦犯のレッテルを貼っておいて、その帰国と引き換えに北方領土の不法占拠を認めよ、と言わんばかりのソ連の主張でした。

 

もはや「人質外交」以外の何物でもありません。

 

当時の外相、 重光葵(しげみつまもる )(1887~1957)は「抑留者を一日も早く帰したい気持ちは一杯だが、だからといって領土を犠牲にして、はたして国民の承認が得られるか自信がない」と、苦しい胸の内を語っています。

 

つづく