昨日の続きです。
ラーゲリでのひどい待遇が続きました。
昭和30年10月、ハバロフスクのラーゲリで待遇に耐えかねた抑留者が決死のストライキで抵抗し始めました。
鎮圧のために軍隊が出動した「ハバロフスク事件」が発生したのです。
昭和31年(1956年)3月に引き揚げ者によってこの事件が日本に伝わると、抑留者の留守家族が「これ以上は待てない」と声を上げ、国交正常化交渉の進展を求める世論が沸き起こりました。
首相の鳩山一郎(1883~1959)は留守家族に「たとえ鳩山内閣がつぶれようとも、私はこの人道問題たる抑留者問題だけは解決したい」と決意を述べてモスクワに飛びました。
ついに同年10月に日ソ共同宣言の発表にこぎつけたのです。
北方領土問題と平和条約は棚上げにされましたが、戦犯とされたすべての日本人の釈放と送還が明記されました。
この間、長期抑留者たちは北方領土問題で日本が譲歩することに強く反対していました。
自分たちの存在が妨げにならないよう、訪ソした議員団に嘆願書まで出しています。
ハバロフスク事件は結果的には交渉を後押ししましたが、抑留者は共同宣言の内容に満足しなかったいいます。
抑留者は最後までソ連になびかず、日本人の尊厳を忘れずにいたのです。
日ソ共同宣言を受けて抑留者の帰国が完了したのは昭和31年の暮れとなりました。
『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名な一節が入った年に、抑留問題は一応の解決を見る形となりました。
しかし、シベリア抑留は終わったのでしょうか?
いえ、まだ完全には終わっていないのです。
亡くなった日本人の遺骨の回収が進んでおらず、DNA鑑定の結果、収集した遺骨の取り違えも発覚しているのです。
いまだにシベリアの大地に放置されたままダモイを待つ遺骨も多いはずですが、その正確な数すらわかっていないのです。
今回のブログは長い時間お付き合いをいただきました。
『ラーゲリより愛をこめて』をぜひご覧いただきたいと思います。
併せて、このような世界の情勢と背景があったことを知っていただきたいと思いました。
戦争がどういうものなのか、それにより私たちは何を失ってしまうのか?
戦争で勝者も敗者もお互いに深く傷を負うことになります。
そうであれば、何より戦争を起こさないことが一番大事なのではないでしょうか。
今だからこそ、しっかりと考えなければいけないと思います。