前回の続きとなりましたが、しばらくブログをご無沙汰しておりました。
と言いますのも、12月の第二週の間入院をしておりました。
この入院の顛末につきましてはまたブログでご紹介したいと思います。
遠からず、将来、必ず皆さんのお役に立つ日がやってくることを確信しておりますので。
さて、元のブログに戻りたいと思います。
千利休・与謝野晶子の展示が行われている「さかい利晶の杜」に行ってきた話ですが、実は会館のすぐ後に利休の屋敷跡があります。
少しわかりにくいですが、2階の窓から見えるちょうどこの場所が利休の住んでいた屋敷跡になります。
いま見学者がおられて、すぐ横に黄色いビブスを着用した解説のボランティアの方が見えますね。
博物館から歩いて1分です。
👆お茶が植えられていますね
今枯れていますが、このような井戸もありました。
その昔は豊かな水を蓄えていたそうですが、堺市が工業都市になるに従って地下水を利用し、利休が汲んだ水も枯れていってしまいました。
ただ、この場所にも、ちゃんとボランティアの語り部の方がおられ、どんな質問にも丁寧に答えてくれます。
これまで読んでいただいてお分かりかと思いますが、利休の情報はたくさんありますが、与謝野晶子の情報はブログにあまり出てきません。
それは与謝野晶子の展示物が、撮影不可のものがずいぶん多かったからです。
実家である当時有名な老舗和菓子屋「駿河屋」の入り口のセットが施されてあったり、与謝野晶子直筆の原稿などを読むことができます。
また、夫と日本中を旅した全国の記録や、12人の子育てを行った頃の写真なども展示されています。
何より今話題の大河ドラマ『光る君へ』で紫式部が注目されていますが、かの有名な『源氏物語』の現代語訳に取り組んだ奮闘ぶりも再現されています。
展示コーナーでは、与謝野晶子自身が源氏物語を朗々と読み上げる音声も聞くことができます。
ただ、非常に驚いたのはこれほど心血を注いだ源氏物語の現代語訳。
それは与謝野晶子の生い立ちと鏡写しだったからだとも言われています。
与謝野晶子は、紫式部と似た生い立ちを経験しており、その心情を「源氏物語」の現代語訳に織り込んでいたと考えられているようです。
彼女は12歳頃まで男姿をさせられていたことや、父には男子誕生を望まれていながら女子だったため、一年後に元気な弟が生まれるまで他家に出されていたという経験があります。
与謝野晶子の『源氏物語』の訳は、明治45年~大正2年(1912~1913)に刊行された『新訳源氏物語』と、昭和13年~同14年(1938~1939)に刊行された『新新訳源氏物語』があります。
晶子31歳のとき(明治42年)、小林政治より、100ヶ月執筆の「源氏物語」の訳の依頼がありました。
これは、明治45年2月から大正2年11月まで 「新訳源氏物語」 上、中、下一、下二巻として、金尾文淵堂から刊行されます。
しかし、宇治十帖の手前まで訳した草稿を、関東大震災(大正12年)で焼失し、「今一度初めから書くだけの時も精力」もないと大きく落胆しています。
現代語訳を始めてから、既に10年を費やし、あと3年はかかると思っていました。
「流星の道」の自序に「以前から短命の予感される私は、かう云ふ風に歌ふ時がもう幾年も無い気がします」とまで述べて、その落胆ぶりが伺い知れます。
しかし、あきらめることなく現代語訳の仕事は続け、昭和13年10月から昭和14年9月まで「新新訳源氏物語」(第一から六巻まで)として金尾文淵堂から刊行されることになったのです。
さて、次回のブログこそ、おいしいものにたどり着きたいと思います。
つづく