hayatouriの日記

はやとうり の独り言

『ドローン戦争』  その3

昨日の続きです。

 

一基当たりのコストが何十万ドルから何百万ドルもするミサイルは、高速で飛行するため迎撃が難しく、大量の爆発物を搭載できます。

 

しかし、あまりにもコスト高となります。

 

今後、より大きな脅威となるのはドローンかもしれません。

 

偵察用は格安で製造できますし、自爆ドローンは日本の軽自動車1台分のコストでできると言われています。

 

飛行速度が遅く、打ち落とすのは容易ですが、一度に大量に投入して攻撃を仕掛けることができるからです。


今、戦争は『見せて戦う』戦争に変化しています。

 

ネットで世界が同時につながる時代になり、テレビやSNSを使った「情報戦」が前提となっています。

 

現在、ウクライナは自らの惨状を映像にして、国際世論を味方にするため世界に発信しています。

 

そこにもドローンは最大限利用されています。

 

ウクライナは、ロシア軍の前線の様子もSNSにアップしています。

 

そこには逃げ惑うロシア軍や、位置情報を特定されて爆撃される隠れ家などが写し出されています。

 

しかし、ドローンの戦争には、機体本体だけでなく、民間用の最先端デジタル技術も必要になってきます。

 

通信で動くドローンはサイバー攻撃を受けます。

 

それを回避するために、周波数帯を細かく変え続けるプログラムが必要になります。

 

こうした技術を提供するために、多くの民間人が協力しているのです。

 

開戦直後、ウクライナ軍は、IT軍を立ち上げ、世界中からエンジニアやハッカーを募集しました。

 

また、戦場で使われるドローンの多くは、民間用のドローンを改造したものです。

 

搭載されるカメラやバッテリー、半導体も民間品で、日本製も多いと言われています。

 

少し前までの戦争では、軍人が中核を担っていました。

 

しかし、ドローンの戦いになり、民間の製造物や民間人、民間企業の関与が不可欠となってきています。

 

すなわち『民間』と『戦争』との距離が近づき、境目が曖昧になってきているということなのです。

 

この境目をどこに設定するのかが国際社会に問われている新しい課題です。

 

一般の民間人が、戦争の情報やサイバーに関わった場合、軍人ではないときちんと区別することができるのか?

 

どこまでがお互いの攻撃対象であるのかを判断するのは非常に難しい問題です。

 

つづく

 

 

『ドローン戦争』 その2

 

昨日の続きです。

 

今回は、ウクライナとロシアという大国同士がドローンを駆使した戦い方をしています。

 

史上初の『ドローン戦争』と呼ばれています。

 

では、どうしてそれほどドローンが必要なのでしょうか? 


戦場で兵士や戦車は、迷彩色の布や植物で覆うなどして姿を隠しています。

 

肉眼では、背景に紛れ込んで探す事は難しいのです。

 

しかし、今のドローンは凄いのです。

 

カメラとセンサー、人工知能(AI)によって、兵士の水分含有量や体温を検知してしまいます。

 

夜間でも兵士を発見することができるため、ドローンから逃れることは非常に困難だと言われています。

 

先程のTikTokを見ても、ウクライナ側のドローンが真上に来た時、それに気づいたロシア兵がドローンに向かって「攻撃しないでくれ!」のような救いを求める姿も投稿されていました。

 

そしてドローンを使うことにより、味方の人的被害を防ぐことができます。

 

また、自分の目の前で、自分の手で人を殺すという罪悪感からも逃れることができます。

 

小さく、低い高度を飛ぶためにレーダーに映らず、迎撃もされづらい特徴があります。

 

さらに入手しやすい民間用ドローンを使ったり、プロペラを3Dプリンターで作ることもできるなどの利点もあります。

 

さらにドローンはこんなこともできるのです。

 

これは実際にあった話です。

 

ウクライナ軍は戦場に落ちているロシア軍のトランシーバー(walkie talkie:ウォーキートーキー)を上空のドローンにより発見しました。

 

ドローンにロープとフックをつけてトランシーバーを拾うことに成功したのです。

 

トランシーバーは故障したり破壊されたりていませんでした。

 

ウクライナ軍はロシア軍の会話を9日間も聞くこともできたと報じられています。


ドローンは上空からの監視・偵察と爆弾落下や激突による攻撃だけでなく、このように地上に落ちているモノを拾うこともできるのです。

 

2022年12月には破壊されて草原に落ちていた中国のDJI製の民生品ドローン「Mavic3」を、別のドローンがロープを垂らしてフックをつけて、釣り上げて回収している動画を公開しています。

 

地元メディアでは「Leave no drone behind, no one left behind(どの兵士も置き去りにはしないように、どのようなドローンも置き去りにはしません)」と伝えています。

 

中国の民生品ドローン「Mavic3」は監視・偵察だけでなく、小型の爆弾や手りゅう弾を搭載してロシア軍に投下して攻撃することもできるようです。

 

徹底的に破壊されたドローンは再利用は不可能となりますが、回収されて部品などを再利用されることも多いようです。

 

つづく

 

 

『ドローン戦争』  その1

 

ウクライナとロシアの戦争が泥沼化しています。

 

既に皆さんもご存知の通り戦争の「仕様」が昔に比べて大きく変わっています。

 

特に今回の戦争で注目を集めているのが「ドローン」です。

 

日本でもテレビや様々な場面で登場するようになりました。

 

大自然を撮影したり、スポーツイベントを大空から撮影したり、ときには、災害救助や支援などにも使われます。

 

昔は空から撮影をするには、飛行機かヘリコプターを使う必要がありました。

 

低コストで身軽に飛ぶドローンは、私たちの目となり、手足となって様々な方向に飛び交っています。

 

それが今、ウクライナの戦場を、偵察や情報戦、攻撃の手段として飛び交っているのです。

 

果たしてこの「ドローンの戦争」は、人類に何をもたらしてしまうのでしょうか?

 

ウクライナ軍が今最前線で、偵察用として使っているのはラトビア製ドローンです。

 

すぐに組み立てて飛ばすことができ、戦場で多用されています。

 

これまでは、偵察兵が森林などの影からずっと離れた位置で偵察していました。

 

ドローンは、相手の兵士や貨物、電子機器等を発見し、至近距離まで近づけます。

 

そして正確な位置情報を把握していきます。

 

ドローンが今飛んでいる経度と緯度と時間は、手元のコントローラーに表示されます。

 

そのデータを攻撃部隊のソフトウェアに入力すれば、火砲による砲撃でその地点をピンポイントに叩くことができるのです。


その攻撃結果は、ドローンから映像で確認でき、外していれば情報修正して再び攻撃するのですから、攻撃の精度は格段に上がります。

 

例えば、ウクライナ軍がTikTokにあげている膨大な映像を確認しましょう。

 

ドローンがソ連戦車の真上に飛行します。

 

わずかに開いた入り口に、バナナ程度の大きさの小さな爆弾を投下しているシーンが多く見受けられます。

 

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まさに武器としてのドローンです。

 

ドローンは、センサーやバッテリーの性能が改善され、この10年で急速に進化したと言われています。

 

2020年のナゴルノ・カラバフ戦争で、アゼルバイジャンがドローンを投入し、非常に注目されました。

 

AIを搭載したドローンによって、30年来にわたる係争地として知られるナゴルノ・カラバフ州を巡るアルメニアの紛争でアゼルバイジャンが勝利したのです。

 

そして同州の領土の一部を奪還することに成功したのです。

 

その裏ではトルコが動いていました。

 

トルコはずっとナゴルノ・カラバフ紛争では、同じトルコ系でイスラム教徒が多いアゼルバイジャンを軍事的に支援してきました。

 

この時はAIドローンという隠し玉で勝敗の帰趨を決める役割を果たしたのです。

 

つづく

 

『ラーゲリより愛をこめて』 その5

 

昨日の続きです。

 

ラーゲリでのひどい待遇が続きました。

 

昭和30年10月、ハバロフスクラーゲリで待遇に耐えかねた抑留者が決死のストライキで抵抗し始めました。

 

鎮圧のために軍隊が出動した「ハバロフスク事件」が発生したのです。

 

昭和31年(1956年)3月に引き揚げ者によってこの事件が日本に伝わると、抑留者の留守家族が「これ以上は待てない」と声を上げ、国交正常化交渉の進展を求める世論が沸き起こりました。

 

首相の鳩山一郎(1883~1959)は留守家族に「たとえ鳩山内閣がつぶれようとも、私はこの人道問題たる抑留者問題だけは解決したい」と決意を述べてモスクワに飛びました。

 

ついに同年10月に日ソ共同宣言の発表にこぎつけたのです。

 

北方領土問題と平和条約は棚上げにされましたが、戦犯とされたすべての日本人の釈放と送還が明記されました。


この間、長期抑留者たちは北方領土問題で日本が譲歩することに強く反対していました。

 

自分たちの存在が妨げにならないよう、訪ソした議員団に嘆願書まで出しています。

 

ハバロフスク事件は結果的には交渉を後押ししましたが、抑留者は共同宣言の内容に満足しなかったいいます。

 

抑留者は最後までソ連になびかず、日本人の尊厳を忘れずにいたのです。

 

日ソ共同宣言を受けて抑留者の帰国が完了したのは昭和31年の暮れとなりました。

 

『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名な一節が入った年に、抑留問題は一応の解決を見る形となりました。

 

しかし、シベリア抑留は終わったのでしょうか?

 

いえ、まだ完全には終わっていないのです。

 

亡くなった日本人の遺骨の回収が進んでおらず、DNA鑑定の結果、収集した遺骨の取り違えも発覚しているのです。

 

いまだにシベリアの大地に放置されたままダモイを待つ遺骨も多いはずですが、その正確な数すらわかっていないのです。

 

今回のブログは長い時間お付き合いをいただきました。

 

ラーゲリより愛をこめて』をぜひご覧いただきたいと思います。

 

併せて、このような世界の情勢と背景があったことを知っていただきたいと思いました。

 

戦争がどういうものなのか、それにより私たちは何を失ってしまうのか?

 

戦争で勝者も敗者もお互いに深く傷を負うことになります。

 

そうであれば、何より戦争を起こさないことが一番大事なのではないでしょうか。


今だからこそ、しっかりと考えなければいけないと思います。

 

 

『ラーゲリより愛をこめて』 その5

 

昨日の続きです。

 

ソ連からの抑留者の帰還は遅れ続けました。

 

ソ連は形ばかりの審理で抑留者の一部を戦争犯罪人としました。

 

強制労働という刑罰を科しているという理屈をつけて抑留を続けてたのです。

 

ロシア語を話し、満鉄調査部員でハルビン特務機関でも働いていた幡男はソ連に対するスパイ行為を続けていたと見なされ戦犯とされました。

 

戦前に左翼運動に参加したこともある「ロシア 贔屓(びいき) 」で、スパイというのは完全なぬれぎぬでした。

 

しかしぬれぎぬを着せるにはもってこいの経歴だったことが災いしたのです。

 

昭和25年(1950年)には、ソ連側が「戦犯関係で調査中の者などを除いて、昨年で捕虜の送還は完了した」と一方的に発表しました。

 

日本は国際連合に実態調査を求めるますが、同じ年に朝鮮戦争が勃発すると、抑留者の問題は脇に追いやられてしまいます。

 

このことは映画の中でも取り上げられています。

 

サンフランシスコ講和条約に反対したソ連は、日本の独立後も国連加盟に拒否権を発動するなど厳しい対日姿勢を崩そうとはしませんでした。

 

昭和28年(1953年)には朝鮮戦争が休戦となり、抑留を命じたスターリンが死去しました。

 

止まっていた引き揚げも日ソの赤十字社によって再開されましたが、戦犯とされた抑留者の「総ざらい引き揚げ」は実現しなかったのです。

 

昭和30年(1955年)には日ソ国交正常化交渉が始まりました。

 

日本側は抑留者の早期帰還を求めましたが、その交渉も暗礁に乗り上げてしまいます。

 

ソ連側が「残っている抑留者はすべて戦犯で、特赦を受けないと出国できない。特赦の決定には平和条約の締結が必要だ」と主張したからです。

 

平和条約の締結は日ソ国境の画定が前提となります。

 

勝手に抑留者に戦犯のレッテルを貼っておいて、その帰国と引き換えに北方領土の不法占拠を認めよ、と言わんばかりのソ連の主張でした。

 

もはや「人質外交」以外の何物でもありません。

 

当時の外相、 重光葵(しげみつまもる )(1887~1957)は「抑留者を一日も早く帰したい気持ちは一杯だが、だからといって領土を犠牲にして、はたして国民の承認が得られるか自信がない」と、苦しい胸の内を語っています。

 

つづく

 

 

『ラーゲリより愛をこめて』 その4

 

昨日の続きです。

 

ナチス・ドイツとの戦いでソ連の国土は荒廃し、多くの兵士を失って復興を急ぐための労働力が不足していました。

 

その当時、ソ連の戦死者数は1450万人と言われていました。

 

ドイツの280万人、日本の230万人と比べてみても、ずば抜けて大きな被害を被っていたわけです。

 

抑留の秘密指令ソ連北海道北部占領を米国に拒絶された直後に出されています。

 

アメリカは、今後の日本への影響力を考えて北海道北部をソ連に占領させる事はしませんでした。

 

アメリカもまたソ連を警戒していたのです。

 

スターリンは抑留者の労働力を北海道北部領土に代わる“戦利品”と捉えていたようです。

 

抑留者はソ連全土の1200か所のラーゲリに送り込まれました。

 

ラーゲリはシベリアだけでなく、カザフスタンウズベキスタンなど中央アジア、さらにヨーロッパに区分されるウラル山脈の西にもありました。

 

想像してみてください。

 

短期間に60万人もの人を割り振るのは簡単ではありません。

 

すなわち、抑留計画は対日参戦のかなり前から計画されていた可能性が高いのです。

 

一方で、この時点で抑留者の数はスターリンの指令より約10万人も多くなりました。

 

収容所設置が間に合わず、日本将兵が現地に着いてから収容所そのものを建設した例もあったようです。

 

平和祈念展示資料館学芸員山口隆行さんは「抑留者が計画より10万人も多くなって食料が不足した上に、抑留後の最初の冬がすごく寒かった。寒さと飢えで亡くなった方は、抑留初期に特に多かった」と語っています。

 

思い返せば、ソ連軍が進行してきたのは8月です。

 

日本の兵士の服装は当然夏服ばかりです。

 

シベリアの冬の寒さに全く耐えられるものではありませんでした。

 

改めて書きますが、ソ連の行為は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言や、捕虜の扱いを定めた国際法に違反です。

 

しかも、抑留者は日本軍将兵だけでなく、未成年者や民間人も多く含まれていました。

 

映画ではこの点についても触れられています。

 

足が不自由で兵役を免れた漁師の青年も、船が拿捕されてシベリアに共に抑留されたことが描かれています。

 

連合国軍総司令部(GHQ)の下で外交権を失った日本政府はソ連に抑留者の扱いや帰還について直接何も言えませんでした。

 

ソ連は中立国を通じた日本政府の非公式な要請にも応じませんでした。

 

昭和21年(1946年)には「抑留者を1か月に5万人ずつ日本に帰還させる」ことで米ソが合意し、引き揚げ船による送還が本格化するはずでした。

 

しかし、ソ連は冬の海の結氷などを理由に送還を遅らせ、帰還者は月5万人の半分にも満たなかったのです。

 

つづく

 

 

『ラーゲリより愛をこめて』 その3

 

昨日の続きです。

 

スターリンは日本軍が武装解除したこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出したのです。

 

この命令によって、千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行されました。

 

銃剣を突きつけ、時には「日本に帰れるぞ」と嘘をつき、日本人を列車に詰め込んだのです。

 

その列車の行き先がシベリアだったのです。


その1割、少なく見積もっても約5万4000人が過酷な労働や食糧不足で死亡したとされます。

 

シベリアへの抑留は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反したものです。

 

しかし、このソ連の対日参戦の裏には、昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談で米英とソ連が結んだ密約がありました。


ヤルタ会談」とはヤルタ(ウクライナ,クリム半島の港湾都市)で行われた,アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチルソ連首相スターリンの3首脳会談です。

 

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ドイツの分割管理、国際連合設立などが話し合われ,ヤルタ協定がむすばれました。

 

また秘密協定として,ソ連の対日参戦と千島列島領有などがあらかじめ決められていたのです。

 

もう少し詳しく見てみましょう。

 

日本は1944年(昭和19年)3月30日、北樺太に関する条約の締結によりオハ油田の権益をソ連に譲渡しました。

 

しかしスターリンは12月14日、アメリカのW・アヴェレル・ハリマン駐ソ連大使に対して

 

満州国の権益(南満州鉄道や港湾)

樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求します。

 

ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないと判断しました。

 

スターリンは1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、日ソ中立条約を一方的に破棄します。

 

さらに8月8日に対日宣戦布告、8月9日に戦闘が開始されました。

 

映画の冒頭のシーンはこの時期のものであると考えられます。

 

このように、ソ連の参戦は予め、イギリスとアメリカとソ連により周到に準備された結果だったのです。

 

また、スターリンはそれ以前から日露戦争や日本のシベリア出兵への“報復”を考えていたとされます。

 

つまりは、個人的にも日本に対する恨みを持っていたのです。

 

では、なぜスターリンは50万人にも及ぶ日本の将兵の抑留を命じたのでしょうか?

 

そこには第二次世界大戦を通じて、ソ連の抱えていた大きな問題がありました。

 

日本兵50万人の抑留を命じた最大の目的は、第2次世界大戦の影響で遅れていた極東開発を進めるためだったのです。 

 

つづく