昨日の続きです。
ちょうど今、落語で言えば「枕」の所ですね。
私自身が、それほど熱心な仏教徒ではありませんが、それはさておいてお話を進めたいと思います。
「もう一度、お釈迦さまに会いたい」と切望した人々。
そのため仏像は、生前の釈迦に生き写しであることが求められました。
といっても写真もない時代です。
年月が過ぎ、生前の釈迦の姿を知る人もいないでしょう。
あくまで想像や理想としての生き写しにすぎません。
釈迦を直接表現するのを恐れ多いとはばかる考えも当初は根強く、具体的に造形され始めるのは没後約500年を経てからです。
京都・嵯峨野の清凉寺には「生前の釈迦の生き写し」と言い伝えられる像があります。
「優填王(うでんおう)思慕像」「三国伝来の瑞像」と呼ばれる本尊・国宝釈迦如来立像です。
これは、入宋した東大寺僧・奝然(ちょうねん)が985年に現地で目にした像を模刻させ、987年に日本に持ち帰ったものです。
『大乗造像功徳経(だいじょうぞうぞうくどくきょう)』『増一阿含経(ぞういつあごんきょう)』などは、モデルになった像にまつわる説話を伝えています。
釈迦が生前、天上にいる亡母・摩耶夫人(まやぶにん)に説法に赴いていた時のことです。
釈迦の不在を嘆き、会うことを渇望したインドのウダナヤ王(優填王)が、彫刻の神様・毘首羯磨天(びしゅかつまてん)に頼んで最上質の白檀(びゃくだん)を使い、釈迦の身代わりとして、そっくりに写した彫像を造らせたというのです。
その像は4世紀の終わりにインドから中国にもたらされました。
太宗皇帝秘蔵のその像を滞在中に目にした奝然は感激し、そっくりの模刻像を作らせて日本に持ち帰ったと言われます。
説話は史実とは言えません。
しかし確かに像を見ると、渦巻き状に表された頭髪や独特の服装のスタイルは、中国の同時代の彫刻とは異質です。
仏像発祥の地・ガンダーラ地方や中央アジアの仏像の様式と共通する異国的な雰囲気を漂わせており、「三国伝来」の由緒もうなずけます。
拡大生身の釈迦の姿を伝えるとされるのは京都・清凉寺の国宝・釈迦如来立像です。
この像には作り物の五臓六腑(ごぞうろっぷ)が納められていたことが解体修理で分かりました。
釈迦が現世に再来した「生身仏(しょうじんぶつ)」としてあがめられた表れです。
像が江戸に出開帳した際は大勢が詰めかけ、像には参拝者が投げた賽銭(さいせん)が当たって出来た無数の傷が残っています。
仏像の中の真打ち、「ザ・仏像」に寄せた人々の願いの強さが伝わります。
つづく