前回のブログは、定額減税のことで少し肩が凝りそうなので、今度は違う方向で書きたいと思います。
本題にたどり着くまでしばらく道慣らしといいますか、落語で言えば「まくら」とでも言いましょうか・・・
さて、仏像ブームの勢いが止まりません。
もうすぐ、大阪中之島美術館で 開創1150年記念 醍醐寺 国宝展も開かれます。
以前朝日新聞が主催した「阿修羅展」は日本美術の展覧会としては過去最多の165万人が来場したようです。
確かに「阿修羅像」は何とも言えない怒りや物悲しさや静けさや美しさを醸し出していますね。
アイドル仏像と言われてて、なんとファンクラブまであるそうです。
私も以前実物を見てきましたが何とも言えない雰囲気を醸し出していますね。
仏像関連本やツアーも人気で「仏像ガール」まで登場しました。
定年を迎えた団塊世代だけでなく、スピリチュアルブームに呼応した若い女性らにも支えられているのが大ブレークの原因のようです。
人々が「癒やされた」と感じた、その阿修羅像ですが、実は、語源的には「仏像」と呼ぶのは正しくないようです。
なぜだかわかりますか?
仏像の「仏(ぶつ・ほとけ)」は、今でこそ観音菩薩や阿弥陀如来など様々な尊格を意味しますが、本来の意味は、仏教を開いた存在、お釈迦さまだけに限定した言葉だからです。
お釈迦さまは実在の人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(BC563~同483ごろ?)といいます。
この辺のところはご存知の方も多いと思います。
インドのシャカ族の王子のため、「シャカムニ(漢音訳で釈迦牟尼=シャカ族の悟りし人)」と後に尊称されました。
今の大乗経典の大部分は、釈迦の生前の言葉や事跡を後世、弟子たちが記憶を元に構成したもので、キリスト教の福音書や論語とよく似た成り立ちです。
三蔵法師が天竺(てんじく)から持ち帰った膨大なサンスクリット語の経典を漢訳しましたが、それが日本にも伝わりました。
そういったお経の書き出しの多くは「如是我聞、一時仏在~」で始まります。「かくのごとく我聞けり、ある時、仏は~に在りて・・・」のように読み下します。
「弟子である私は、ある時、お釈迦さまが~で・・・とおっしゃるのを聞きました」という意味で、「仏」は「ほとけ」でなく「ぶつ」と読みます。
釈迦の尊称の一つである「Buddha=ブッダ=覚者、悟りし者」のサンスクリット原音に漢字を当てたからです。
釈迦の教えは元々、生きることに伴う苦しみからの脱却を目指したもので、○○仏や××菩薩などの「ほとけさま」は登場しません。
釈迦の没後、その偉大さを追慕する信奉者たちが「もう一度、お釈迦さまに会いたい」と切望した結果、生まれたのが「仏」像つまり釈迦の像なのです。
つづく