昨日の続きです。
北斎が新たなチャレンジを始めたのが70歳!
当時の平均寿命は60前でしょうから、大変な老人がチャレンジを始めたということになります。
北斎は90歳の長寿を全うし、生涯現役を貫きました。
多くの弟子を抱え、人気絵師の名をほしいままにしました。
ところが本人は最期に「あと5年、いや、あと10年生き長らえることができれば、まともな絵描きになれたのに……」
悔やんだそうです。
そんな彼の雅号(絵師として活動するときの名前)のひとつが「画狂人(または画狂老人)」です。
あらゆるものを描き、画ひと筋にひたすら邁進し続けた人生でした。
ところが努力家という美談の一方で、北斎にはかなりの奇人変人であったエピソードがあります。
現在、私たちは彼のことを「葛飾北斎」と呼んでいますが、「葛飾北斎」という名前を名乗っていたのは70年の画家人生の一時期です。
駆け出しの頃は「春朗」、続いて「宗理」を名乗り、やがて「北斎」「時太郎」「画狂人」……といったように30回も名前を変えています。
北極星(北辰)や北斗七星を想起させる「北斎辰政」や「葛飾戴斗」など、かなりかっこつけた名前もあり、雅号にこだわりがあったのかなかったのかは謎です。
ちなみに、本名は鉄蔵といいます。
また雅号以上にコロコロ変えたのが住所でした。
北斎は片付けがまったくできず、散らかすだけ散らかすと、住居を移転したそうです。
人生で90回も転居したと伝えられています。
料理もまったくせず、買ってきた食事はそのまま器にうつさず、食べたらそのへんにポイすてだそうです。
一度、広重が北斎に教えを乞うために自宅を訪れたことがあるそうですが、その高慢な態度と、あまりに汚い家の中を見て、そそくさと帰ってしまったようです。
これは展示されていた北斎の家のモデルです。
中で布団をかぶって、絵を描いているのが北斎。
近くに座っているのが娘の 葛飾応為です。
この娘は北斎(父)をとっても好きだったようですね。
そして、妻は・・・
逃げていってしまいました💦
実は葛飾応為は絵の才能がずば抜けて高く女流絵師として活躍しています。
北斎は大変寒がりで、客が来た時も布団から出ようとはしなかったようです。
絵もこのように布団の中でよく描いたそうです。
とにかく喧嘩早い、お金にルーズ、ゴミ屋敷など近所にいたら、ずいぶん迷惑なお方のようです。
つまり一般的な衣食住にはほぼ興味がなかったことがうかがえます。
きっと絵を描くこと以外には、人にも物にも、とことん無頓着だったのでしょう。
ただ甘党だったようで、北斎宅への手土産はお菓子が喜ばれたようですよ。
つづく