とうとう5月になってしまいました。
ゴールデンウィークに突入している皆様も多いのではないでしょうか?
このブログを明日から3日ほどお休みをさせていただくことになります。
さて、昨日の続きに戻ります。
今度は広重について調べていましたね。
広重は10代前半で父母を相次いで亡くしました。
20代半ばで家督を親族に譲り、浮世絵師になります。
生涯に手がけた膨大な数の作品から、彼が日夜絵筆をふるい続けていたことは明らかですが、彼ほどの人気絵師であっても筆一本で生きていくのは決して容易ではなく、亡くなる直前まで借金の返済に追われていた苦労人でした。
同じ歌川派である豊国が、追悼の意を込めて描いた広重の肖像(死絵)です。
この絵は広重編冒頭に紹介しましたね。
歌川豊国(三代)「広重肖像」東京国立博物館蔵(引用元:東京国立博物館
そんな広重は数え年62歳の秋に病気で亡くなります。
辞世の句は「東路へ 筆を残して 旅の空 西の御国の 名所(などころ)を見む」
日本のあらゆる土地の風景を描いてきた人生、どこへ行っても筆を走らせ、常に作品のことを考えていたのではないでしょうか。
ようやく筆を置いて、さて西方浄土を見物に行こうか。
そこには、世のしがらみから解放され、穏やかな心で死を迎える広重の姿がうかがえます。
昔の著名人たちは、死の直前にこのような素晴らしい辞世の句を残す人が多かったみたいですね。
ここから北斎と広重の出会いについて調べてみたいと思います。
まずは一度、北斎の歴史を簡単に振り返ります。
北斎の経歴をひもとくと、早くも6歳にして絵筆をとり、19歳で浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子となり、絵師としての活動をスタートしています。
やがて挿絵などで頭角を現しますが、師匠の没後に勝川派から破門され、北斎は独自の画境を目ざすようになっていきます。
北斎は早くも6歳にして絵筆をとり、19歳で浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子となり、絵師としての活動をスタートします。
やがて挿絵などで頭角を現しますが、師匠の没後に勝川派から破門され、北斎は独自の画境を目ざすようになっていきます。
破門の理由は師匠が亡くなったからだとか、北斎が他の流派の画法を学んだとか諸説あります。
やまと絵や琳派を学んだ北斎は、宗理(そうり)の号で狂歌絵本の挿絵を手がけ、肉筆で描いた美人画は評判となります。
美人画で名を成すにはいたらず、日々の暮らしにも困るようになっていきます。
北斎が40代になったころ、寛政の改革によって読本(よみほん)が流行します。
北斎はその挿絵を一手に引き受け、創意工夫を凝らした絵が評判となります。
つづく