連休後半戦でございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私も2日から4日にかけて少し遠出をしまして、この三日間で約1000キロほど車に乗ってきました。
特にこれといった渋滞にも出会わず、非常に快適なドライブでした。
行ったところが思いのほかよかったのでまたブログでいろいろご紹介したいと思います。
さて、北斎と広重の出会いのために葛飾北斎の歴史を少しさかのぼっていましたね。
北斎が50代半ばに読本挿絵を一段落させたころには弟子や私淑者が全国に大勢いました。
彼らの絵手本として作成した版画「北斎漫画」で北斎の名は不動のものとなります。
「漫画」といっても、今のコミックではありません。
目に映る生活用品や植物、動物などありとあらゆるものを描写して1冊の本にまとめたものです。
もちろん、働く人の姿や、人相、着物、様々なものも含まれています。
絵描きのためのお手本百科と言ったほうがいいと思います。
そのようにして腕を磨いた北斎が70歳を過ぎて挑戦したのが、「冨嶽三十六景」シリーズでした。
さまざまな富士の姿を描いた36枚の連作は、浮世絵の世界に風景画という新たなジャンルを確立し、北斎はついに浮世絵の頂点に上りつめたのです。
しかし、北斎が浮世絵師としてトップに君臨したのも束の間。「冨嶽三十六景」が大ヒットした2年後の天保4(1833)年、北斎を凌駕(りょうが)するような絵師が現れます。
それが、五街道のひとつである東海道の宿場を題材にした連作「東海道五拾三次」で空前の大ヒットを記録した歌川広重でした。
このブログでも紹介しましたように広重は寛政9(1797)年、幕府御家人の火消同心、安藤家に生まれています。
13歳で両親を亡くした広重は家計を助けるため、浮世絵師を志して歌川豊広に弟子入りします。
16歳で広重の画号を授かります。
歌川派は美人画や役者絵を得意としていたのですが、広重はそれにとらわれることなく、円山応挙の影響を受けて写生を重視し、独自に腕を磨いていきます。
そんな広重が満を持して描いたのが風景画「東都名所」でした。
しかし、自信作にもかかわらず評判は今ひとつだったのです。
その理由は、同じ年に北斎の「冨嶽三十六景」が発表されていたから。
72歳の老人が描いた富士山は、当時35歳の広重から見ても斬新かつ革新的で、大きな衝撃を受けたといいます。
広重は出端をくじかれたものの、かえって意欲をかきたてられ、一立斎(いちりゅうさい)と号を改めて新たな風景画・名所絵の境地を模索します。
そうして2年後、有名版元「保永堂」に依頼を受けて世に送り出したのが「東海道五拾三次」シリーズだったのです。
東海道の53の宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大当たりをとった背景には、富士山信仰やおかげ参りなどの旅行ブームもありました。
つづく