昨日の続きです。
膝はどうなるかと心配しながら何とか松江城の最上階までたどり着きました。
登山も実は下りの方がきついなんてよく言われますが、まさにその通り!
上りは休み休み登るのですが、城の下りは一気に進みます。
膝が「笑う」状態です。
しかし、何とか無事に階段を降り切り、外に出ることができました。
あと、観光の目的地は1つだけです。
それがこれです!
実は松江城の周りには立派なお掘りがあります。
そのお堀を遊覧船が運行しているのです。
大体じっくり1時間程度はかかります。
現在観光地となっているお城の周りにもお堀のあるところが多いですが、もともとお城は防衛の拠点です。
外部に向かって、幾重にもお掘りが造られていました。
私の地元の和歌山城にも内堀と外堀がありました。
東堀と北堀が城からだいぶ離れたところに建設されており、南堀を建設していたところが途中で中止になりました。
これが今の和歌山市堀止というところに当たります。
ちょうど和歌山城から直線で3キロ位になりますが、このくらい離れたところにもお堀を造っていたわけです。
お掘りやお城がどうして無くなったのかには深い訳があるのです。
現在残っている天守は、全国にたったの12基だけです。
これは一体なぜなのでしょうか?
城激減の大きな理由の一つは、豊臣家の滅亡後に出された「元和の一国一城令(本城以外の城が廃城となる)」と「武家諸法度(城の新築禁止。修理も許可制となる)」です。
このお達しで、この時なんと95%もの城が消滅したといいます。
その後長い江戸時代を経て明治維新を迎えると、城激減のもう一つの波がきます。
これが「廃城令」(または「城郭取壊令」「存城廃城令」)です。
「明治に城がたくさん壊されたらしい」ということはご存知かもしれませんが、今回松江城との絡みでこのことも調べてみたいと思います。
明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。
しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。
版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事です。
城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様だったようです。
また、新政府への反抗運動の拠点となるのを防ぐために取り壊された城もありました。
そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。
そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。
簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。
存城処分となったのは、東京城(江戸城/東京都)、仙台城(宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城(大阪府)、広島城(広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみとなり、残りはほとんどが廃城処分となりました。
つづく