昨日の続きです。
大名たちは華族になっていきました。
このときの華族数は427家。
1871年廃藩によって旧諸侯の藩知事は東京居住の華族となりました。
そして皇族華族取扱規則で、国民の上層部として位置づけられ、国民の模範となることを求められたのです。
また家禄(かろく)も政府から支給されることになりました。
1874年6月には華族内部の団結と交友のため華族会館が創立されたました。
また子弟教育のために、1877年学習院を開校しました。
1884年に華族令が制定され、これにより従来の華族に加えて、国家に勲功のあったとされる政治家、軍人、官吏、実業家などが新たに華族の仲間入りをすることになります。
公・候・伯・子・男 の5段階になり、下に爵(しゃく)の文字がついてきました。
この華族までいかないもっと下っ端の侍たちは士族になりました。
公家は旧来の家柄、旧諸侯は旧領石高をほぼ基準としてランクづけられました。
方や勲功華族は薩長(さっちょう)など藩閥出身者が多く、しかも高位に位置づけられました。
ところが一般士族の暮らしはあまり豊かではありませんでした。
明治になって生活に困った士族が、商売を始めるけれどもなかなかうまくいかない士族の商法。
そんな噺が古典落語にはいくつも残されています。
例えば『御前汁粉』・・
とある武家の一家。
何か商売を始めようと相談します。
主人 「料理屋を始めようと思うがどうじゃ」
奥方 「お魚の仕入れが大層むずかしく、夜更けまでの商売で身体によくありません」
主人 「それでは小間物屋はどうじゃな。綺麗でよかろう」
奥方 「数が多いので売る時に値段が覚えきれませぬ」
主人 「焼き芋屋はどうかな」
奥方 「食べるだけなら結構でございます」
主人 「風呂屋は・・・」
奥方 「どうも番台は旦那様にはお目の毒かと存じます」
主人 「西洋料理なんかはどうじゃ」
奥方 「めっそうもござりませぬ。」
このように武術と学問以外はできないことばっかり。
いえいえこの当時ですから武術なんかも怪しいものです。
主人 「そうだな、汁粉屋はどうだ」
奥方 「あれまあ、それは結構、家族全員が大好物で・・・」
主人 「我々で食べるのではない。商法にするのだ」
それでもすったもんだの末に何とか汁粉屋に決定。
旦那は「御膳汁粉」と書いた大きな看板を屋敷の門へ堂々と掲げて晴れて開店となりますが・・・
つづく