昨日の続きの話です。
大名の石高ついて調べてみましょう。
紀州のように50万石を超える大名が5つほど。
30万石以上でも15ぐらい、20万石を越すのが20家ちょっと。
10万石以上で50家ほど、つまり全体の2割弱でしかありませんでした。
このクラスがいわゆる大きな大名です。
つまり8割以上大多数が10万石未満と言うことになります。
大名といえども内側には大きな格差があったわけです。
春や昔 一五万石の城下かな
正岡子規が詠んでいますが、伊予松山15万石も相当大きなお家といえます。
さて、将軍に直に仕える直参旗本。
旗本八万騎などとも言われましたが、実際には5000人ぐらいだそうです。
これも殿様です。
将軍の直属の部下は石高200石ぐらいを境に「お目見え以上」と「お目見え以下」とに分かれます。
徳川将軍様に会う資格のあるお目見え以上は旗本。
会う資格のないお目見え以下が御家人となります。
時代劇の捕物帳に出てくる町奉行は旗本で、与力・同心は御家人ということになります。
ですから落語などにも登場する名奉行大岡忠相(おおおかただすけ)も旗本でした。
大岡能登守(おおおかのとのかみ)として20歳過ぎに家督を継ぎ、それから20年後町奉行に就任。
この時、同役の先輩が同じ能登守という名乗りだったので能登守を越前守に改めました。
これが大岡越前守の誕生となりました。
大岡越前守忠相さん、20歳過ぎに相続をした家族が1920石であったと言われています。
これを振り出しに、町奉行勤続10年の頃に新たな2000石を受けます。
また10年ほど経って、今度は寺社奉行に栄転となったときにまた2000石をいただきます。
さらにまた10年余り後、4080石を加増されてちょうど10000石の大名格となりました。
しかしこのクラスの大名では城持ちではなく陣屋止まりでした。
岡崎市内に大岡家の陣屋の門が残っていますが、忠相さんはここを訪れることなく3年後にこの世を去りました。
大名大岡家は7代続いて明治を迎えることとなりました。
それから身分は子爵となります。
つづく