昨日の続きです。
そんなわけで、モスクワでの最終選考に臨む候補は、最低でも2人以上は必要で当然再募集の運びとなりました。
三次審査にはソ連から、宇宙医学専門医が来日して当たりました。
実は、その通訳として米原万里さんが参加することになりました。
米原さんは、父の仕事の事情で幼い頃からソビエトで育ちました。
エッセイストや作家として、またロシア語同時通訳者として活躍していました。
そして、米原さんは通訳として最終選考結果に終始立ち会うことになったのです。
2回目の選考で最終審査まで残ったのは20代の青年ばかりです。
健康ではあるが、新入社員に毛が生えたような感じで、とてもジャーナリストと呼べるような人たちではまだまだありませんでした。
そのうち、この青年たちにも、あれこれ健康上の欠陥が検出されてきました。
ソ連人医師たちも、もしかしたら誰も残らないかもしれないと焦り始めました。
そして、とうとう「もうこうなったら、誰でもいいから推薦しろ!」と米原さんに言い始めたのです。
彼らが帰国する3日前でした。
ソ連側も、多大な費用と時間を費やしたこの計画が、宇宙飛行士不在というようなみっともない結果に終わらせるわけにはいかなかったのです。
そこで米原さんは・・・
「ベトナム取材やレーガン大統領のインタビューの経験があって、ワシントン・ポスト紙に外国特派員ナンバーワンに選ばれたこともある素晴らしいジャーナリストがいる」
と伝えたのです。
彼らは飛びついてきました。
もうこうなったら、第1回目の募集で振り落とした原因には目をつぶろうと。
米原さんによれば、四角四面でやたら厳格になったかと思うと、拍子抜けするほどいい加減になるこの落差がロシア人にはよくあるそうです。
こうして再浮上した「非合法合格者」(米原さん曰く)は、その後トントン拍子に調子を上げていきます。
秋山さんの名誉のために申し上げますが、この「非合法合格者」と命名をしたのは米原さんです。
もともと米原さんと秋山さんは、ずいぶんと親しい間柄で、お互いに遠慮なく冗談を言ったり意見をかわす仲間だったのです。
なので「非合法合格者」という表現はむしろ尊敬の念を持って表現されていると考えていいでしょう。
モスクワでの最終審査では、若者たちが次々と平常心を失い、その精神状態が即座に高熱や下痢や感冒という肉体的症状となって脱落していきました。
しかし彼は持ち前の図太さを発揮して、最後まで残ったのです。
つづく