昨日の続きです。
「日本初の宇宙飛行士になれるかもしれない!」
「世界で初めて、ジャーナリストが宇宙を訪問することになる!」
そんなわけで、空前のプロジェクトの主役となる宇宙飛行士候補には、TBS本社とその関連会社の社員多数の応募がありました。
結局第1回目の募集では、残念ながら、秋山さんは第三次審査を通過せず、生き残ったのは当時カメラマンであった菊池涼子さんただ1人でした。
宇宙計画は大変高価なプロジェクトです。
どんな不測の事態が生じて予定された飛行士が搭乗不能になるかもしれません。
そんな場合に備えて、宇宙飛行士は、打ち上げ、当日直前まで必ず正副のペアで同一メニューの訓練を受けます。
ちなみに、ユーリイ・ガガーリンもへワルレンチナ・テレシコワも、実は正副の副の方だったのです。
1961年4月12日、旧ソビエト連邦(現在のロシア)が、ユーリ・ガガーリン少佐(1934~1968)を乗せた宇宙船「ボストーク1号」の打ち上げに成功しました。
大気圏外で地球を1周し、無事に帰還。
人類史上初となった有人宇宙飛行は、打ち上げから帰還まで108分間でした。
翌日の朝日新聞は1面トップで、このニュースを大きく報道。
日本国内やアメリカなど諸外国の反応も、複数のページを使って伝えました。
ガガーリンは当時27歳。
空軍のパイロットを経て宇宙飛行士に選ばれた少佐でした。
帰還後、宇宙からの眺めについて「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。地上はよく見えた」と述べました。
この言葉は後ほど「地球は青かった」と表現されガガーリンの名言として残されています。
※1963年6月16日、テレシコワはボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となった[1]。
旧ソ連や現在のロシアでは、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワは「チャイカ」(Ча́йка、カモメの意)が与えられた。打上げ後の «Я — Чайка» (ヤー・チャイカ、「こちらチャイカ」の意)という応答が女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本ではチェーホフの戯曲『かもめ』で登場人物のニーナが繰り返し言う台詞「私はカモメ」と結びつけて紹介された。
以上、ウィキペディアより
つまりメインではなくサブの方だったのです。
ガガーリンの場合は、直前になって正飛行士が怖じ気付いて乗らないとゴネ始めたためです。
気持ちはわかります。
人類史上誰もやったことのない宇宙へのチャレンジですからそれは怖いでしょう。
テレシコワが女性初の宇宙訪問者になれたのは、打ち上げ前日正飛行士に、おそらく興奮のあまりでしょうが、予定が狂って月経が始まってしまったためでした。
全く嘘のようなホントの話なのです。
つづく