hayatouriの日記

はやとうり の独り言

観てきました!能舞台 その6

昨日の続きです。

 

能の登場人物たちについてです。

 

登場人物は類型化されています。

 

代表的な役柄には『源氏物語』『伊勢物語』などの古典文学に登場する優美な男女の霊、『平家物語』で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊、というように、幽霊が多いのも特徴です。

 

また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場します。

 

こうしたものたちが人間の世界に現れ、私たちとつながりを持つことになるのです。


もちろん、現実に生きている人間が主人公の能もたくさんあります。

 

白拍子のような芸能者、曾我兄弟や義経、弁慶などのヒーローが、さまざまなドラマを繰り広げ、別れ別れになった親子や夫婦の物語では市井の人々が主役となります。

 

中国ネタの能も多いので中国人も登場しますが、外国人であることは出立で示すのみで演技に違いはありません。


演者の役割分担についてです。

 

以上のような作品群を演ずる人々の側にも、いくつかの役割分担があります。


能は徹底した「シテ中心主義」で、美しい衣装も面も観客の目を引きつける舞も、ほとんどがシテのものになっています。

 

また、上で述べた代表的な役柄もシテが演ずるのがふつうです。

 

そのシテと応対し、シテの演技を引出す役をワキといいますが、シテを演ずる人たちのグループ(シテ方)と、ワキを演ずる人たちのグループ(ワキ方)はまったく別のグループです。

 

シテ方の役者がワキを演じたりワキ方の役者がシテを演じたりすること全くありません。

 

能の役者や舞台について、いろいろ調べてきましたが、知らないことばかりでした。

 

「食わず嫌い」みたいなところもあり、敷居の高い能舞台でしたが、一度鑑賞すると本当に芸術性の高い伝統文化だと思います。

 

50分ほどの舞台でしたが、個人的に驚いたことがもう一つあります。

 

舞台正面に向かって、右側に地謡(合唱隊)グループが8人ほどで、ずっと正座したままです。

 

この方たちや演奏者は舞台右奥にある小さな引き戸から出入りをします。

 

驚いたのは、舞台が終わり主役が奥に入ってしまった後、何事もなかったように、全員がすっと立ち上がり、静かに引き戸から退場したことです。

 

もちろん座布団も何も敷いてはいません。

 

私なんかは、そんな正座は絶対無理です!

 

最後に、能舞台は、何人たりとも靴下や裸足で上がれません。

 

必ず白足袋でなければならないのです。

 

そんなわけで Awesome City Club のメンバーもこんな感じで演奏しておりましたよ。

 

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今回のブログもお付き合いいただきありがとうございました。

 

機会があれば、皆さんもぜひ能楽堂に足を運びくださいね。

 

 

観てきました!能舞台 その5

昨日の続きです。

 

能の出演者たちを続いて見ていきましょう。

 

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↑それぞれの立ち位置を参考にしてください。

 

ワキの助演者です。

ワキツレ(ワキ方)

 

ワキツレが登場しない曲もあれば、二人以上登場する曲もあります。

 

ワキと同じく現実の男性役が多いので面をつけていませんが、ワキと一緒に登場したり、行動をともにするとは限りません。


地謡(シテ方)
通常は前後4名ずつの計8名で構成されます。

 

今風に言えば合唱隊のような存在です。

 

情景や登場人物の心理を謡によって表現します。

 

後列の2番目か3番目の人が地頭といい、地謡のリーダーで、曲全体の指揮者的役割も務ます。


シテの相手役です。
ワキ(ワキ方)


「脇」とも書き、シテの相手役を努めます。

 

僧、神職、大臣、武士など現実に生きている男性の役柄が多いため、面をつけていません。

 

冒頭に登場する曲も多いが、まれにワキが登場しない曲もあります。


絶対欠かせない主役。
シテ(シテ方)


主役なので一曲に必ず一人です。

 

前後二場からなる能では前シテ・後シテと呼び分けますが、一人の演者が扮装を替えて演じます。

 

前シテで仮の姿、後シテで本性を現すという曲が多いのですが、前後で別人格を演ずる場合もあります。


4つの楽器で囃します。
囃子(囃子方)


笛・小鼓・大鼓・太鼓がそれぞれ一人ずつの計4人で構成されるが、太鼓が入らない曲もあります。

 

この4種類の楽器で、謡と合わせてさまざまな情景や心情を表現。各楽器は分業制で他楽器は兼ねません。


シテの助演者です。
ツレ(シテ方)


単に「ツレ」と呼ばれるのはシテの助演者です。

 

登場しない曲もあれば、二人以上登場する曲もあります。

 

また前場後場で役柄が変わる場合もあります。

 

また必ずしもシテと同時に登場したり行動をともにするとは限りません。


地味なようで実は重要。
後見(シテ方)


舞台の進行が円滑に運ぶよう見届ける役割です。

 

装束を直したりつくり物や小道具の受け渡しをするほか、シテに万一事故が遭ったとき代役を務めなくてはなりません。

 

二人以上のときリーダーを主後見と呼びます。

 

さて能にはどんな役が登場するのでしょうか。

 

度々登場する人間国宝のお話によれば、過去には2000曲ほど能が作られたようですが、現在の上演曲目はおよそ240曲だそうです。

 

そのうち普通演じられるのは120曲ぐらいそうですが、能の筋書きは非常に単純で、登場人物も類型化されています。

 

次回は登場人物について調べてみましょう。

 

つづく

 

 

観てきました!能舞台 その3

 

早速、本題から外れますが、スッポンを取り寄せたので日曜日の夜にスッポン鍋を作りました。

 

生きたスッポンではありませんが、お店でばらして生の状態で届きました。

 

これを直接鍋に放り込んだらできるというわけではなく、スッポンの全身の薄皮を剥がす必要もありいの、かなりアク抜きを丁寧にやる必要がありいの結構厄介です。

 

さて、さて、どうなったかはまた機会を見てご報告したいと思います。

 

前回の続きです。

 

能舞台の構造を調べていましたね。 

 

能舞台は、本舞台、橋掛がり、後座、地謡座からなっています。本舞台は三間(5.4メートル)四方の正方形で、その中で演者の舞が行われます。

 

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柱について 


本舞台には角すみ 柱、ワキ柱、シテ柱、笛柱と呼ばれる四本の柱が立っています。

 

人間国宝の大槻文藏さんも舞台で語っておりましたが能面をつけたシテは極端に視野が狭くなっています。

 

このブログの中でも、能面の瞳の穴の小ささをご紹介しましたが、面をつければ上下左右ほとんど視野がないようです。

 

しかも、演者の所作は威厳もあり優雅でもあります。

 

キョロキョロと顔を動かすことは許されません。

 

だとすれば、一体演者は何をつかって自分の位置を確認するのでしょうか?

 

演者は実は柱を目印にして自分の位置を確認しているといいます。

 

柱は大事な目印になります。

 

特に角柱は、シテの目印という意味で、「 目付(めつけ) 柱」と呼ばれています。

 

人間国宝の大槻文藏さんも話していましたが、能舞台には、必ず「後見」という人がいます。

 

この人は、普段は舞台の1番奥左側にいて、何もない時は演者の衣装を整えたりしています。

 

なぜ後見が必要なのでしょうか?

 

あってはならないことですが、演者が舞台から転落したりすることもあるそうです。

 

そんな時に、急遽、代役を務めるために後見が置かれています。

 

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ここで「シテ」と言う聞き慣れない言葉が出てきましたが、登場人物の呼び方を少し紹介をしたいと思います。

 

漢字では「仕手」「為手」と表記し、その一曲を勤める人という意味です。

 

登場人物はシテ(主役)※これは必ず1人だけ

 

ワキ(シテの相手役)

 

ツレ(シテ、ワキの助演者)

 

ワキやツレは登場しない演目もあり、ツレが複数登場する演目もあります。

 

役柄によって装束や面が異なるが、面をつけない(「直面」という)役柄もあり、ワキは面をつけることありません。

 

一般的に舞台右端には地謡名、舞台裏には数名の囃子と後見が座し、いずれも登場人物ではないため紋付袴姿です。

 

また演目によって途中で狂言の役者が登場することがあり、それを間狂言と呼びます。


シテ、ツレ、後見、地謡を「シテ方」が、ワキ、ワキツレを「ワキ方」が、笛、小鼓、大鼓、太鼓を「囃子方」がそれぞれ担当します。

 

アイは狂言を演ずる「狂言方」が担当します。

 

現在、興行主・演出家・出演者の役を兼ねるシテ方にはつの流儀(観世、金春、宝生、金剛、喜多)があり、流儀うたいによって謡や節回し、扮装、演出などが少しずつ異なります。

 

 

つづく

 

 

観てきました!能舞台 その2

 

昨日の続きです。

 

恥ずかしながら、当日、能を観劇するまではその歴史や背景などは全く勉強しませんでした。

 

なので、少し勉強がてら、その歴史や決まり事などをご紹介したいと思います。

 

「能」とは、1300年もの昔に中国から伝わった芸能のひとつです。

 

「能面」や「面(おもて)」といった仮面を使って劇を行なう特徴があります。

 

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大槻能楽堂に飾られている写真です。

 


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↑皆様、ご存知の能面の写真です。

この面の瞳の穴の小ささにご注目くださいね。

後ほどご説明いたします

 

多くの物語は神話や歴史的な話を題材にしています。

 

能には、演奏にあわせて物語が進行する、ミュージカルやオペラのような歌舞台という魅力もあります。

 

ライブの前に人間国宝の大槻文藏さんが「能を堅苦しく見ないで、室町時代のミュージカルだと思ってください」と説明しておられましたが、まさにそうだと思います。

 

音楽があり、謡があり、舞があり、ストーリーがあるのはこれまさに当時のミュージカルだと言えるでしょう。

 

ちなみに、人間国宝が語るには、人の語りに抑揚やリズムをつけて謡にしたのは能が初めてだそうです。

 

それが引き継がれ、演歌になったり今の音楽につながっているということらしいです。

 

今回の企画で能と現代ミュージックをコラボさせたのは、どうやらそういうことを皆さんに知っていただきたかったということらしいです。

 

私も現場に行って改めて思ったのですが、ミュージシャンのライブの前にはステージ「転換」(楽器などのセットアップ)をしますが、大概はステージにカーテンが付いていたりしてその内側で、機材のセットなどが行われます。

 

ところが、能舞台には演者とお客さんを遮るものが何もないわけです。

 

これも現場でハッと気づきました。

 

つまり能舞台は、観客席(見所)と舞台の間に緞帳も幕もなく、極度に簡略化された空間となっていたのです。

 

もともと、能舞台は野外にありました。

 

能楽堂に収められた現在も、舞台に屋根がついていたり、欄干のある渡り廊下が伸びたり、松ノ木が立っていたり、というのは、野外の能の舞台を再現するためであり、さまざまな工夫がされています。

 

たとえば、橋掛かりに植えられている一ノ松から三ノ松は、手前から次第に小ぶりになります。

 

これは遠近法を用いた工夫です。

 

照明も自然光と同様の状態を作り出すため控えめになっています。

 

そして、音響上の工夫も成されています。

 

能舞台の床下や橋掛がりの下に、大きな甕(かめ)を据える場合があります。

 

実際大槻能楽堂の舞台下にはいくつもの甕が据えられています。

 

これは、適度な吸音効果をもたらし、足で踏む拍子の響きをよくするばかりではなく、笛や太鼓といった囃子の音、謡の声にも影響するといわれています。

 

出演したミュージシャン達も、その音響の良さに驚きを隠せませんでした。

 

 

能舞台のつくりを調べてみましょう。

 

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↑大体構造はこのようになっています。

 

能舞台は檜で作られています。

 

舞台中央の後方に「鏡板」。

 

舞台前方に「階きざはし」、向かって左に「橋掛かり」、その奥に幕があります。

 

この形式が確立したのは、織田信長の活躍した時代より少し前だろうと推測されています。

 

現在の構造になった最古のものは、秀吉が作らせたという西本願寺の北能舞台だそうです。

 

つづく

 

観てきました!能舞台  その1

 

前回のブログで大阪で「古代メキシコ」展に行ったことをご紹介しました。

 

実はその後、大槻能楽堂で「能」を観劇しました。

 

大槻能楽堂のご紹介です。

↑クリック☝

 

「能面」を身に付けて、ソロリソロリと舞台をすり足で歩く「アレ」です。

 

このなりゆきを説明を少しさせていただきます。

 

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『春の謡会』という企画が、大阪府大阪市等の主催で二日間にわたって行われました。

 

その2日目に二組のミュージシャンが登場し、能舞台で演奏することになりました。

 

その1組にAwesome City Club が出演することになり、聞きに行こうということになりました。

 

それまでに、少し時間があるので「古代メキシコ」も行ってみようということだったのです。

 

率直に言って「能」の持つ荘厳な雰囲気だけでなく、演奏者や演者の迫力に圧倒されてしまいました。

 

まさに「目から鱗」という感じでした!

 

司会進行(最近はナビゲーターっていうらしいです💦)はFM 802のアナウンサーで大抜卓人さん。

 

挨拶の中で、本日の能の演目「小鍛冶」のあらすじと見所についてわかりやすく説明してくれました。

 

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↑少し小さいですが、読んでいただくと「あらすじ」が書いてあります。

 

ちなみに、写真では金槌を持っていますが、このシーンは「新しい刀」を造っているところです。

 

この写真は主人公の「霊狐」です。

 

画面では切れていますが、右側に刀鍛冶である「小鍛冶宗近」がいます。

 

私もこの時初めて知ったのですが、刀を造るのは1人ではできません。

 

必ず同じレベルの製造技術を持つ相方が必要なのです。

 

最低その2人が息を合わせてトンテンカントンテンカンと真っ赤に焼けた鉄を鍛えることを「相槌」と言います。

 

よく私たちも「相槌を打つ」と表現しますが、実はこの刀鍛冶の作業が、その語源だったのです。

 

1つ勉強になりました!

 

当日のスケジュールは、まず最初に能を約50分観劇します。

 

その後、舞台の転換等の間を利用して人間の大槻文藏さんが、能についての話をしてくださいます。

 

舞台転換が整ったところで、シンガーソングライターのCaravan、Awesome City Club という順番で演奏を行います。

 

皆様の中で、本物の能をご覧になった方はいらっしゃいますか?

 

珍しく能舞台を見学したものですから、このブログで少し皆様にもご紹介したいと思います。

 

つづく

 

 

ちょっと大阪へ行ってきました その8

昨日の続きです。

 

なぜ古代メキシコ文明では生贄が捧げられたのかを調べていましたね。

 

このブログの中でも書いていますが、アステカ王国の特徴は「非常に戦闘的」でした。

 

そのため短期間で「38の地方と489の町を支配下に置いた」との研究がされています。

 

ただし基本的に領土欲は薄く、相手を従えて貢ぎ物を受けとる取り決めをするとすぐに帰って来てしまうようです。

 

政治的には不徹底な統治ですがそれゆえ、たびたび反乱が起こっていました。

 

アステカの戦争では勢力拡大をはかる一方、敵をとらえて捕虜にすることが重視されていたようです。

 

とらえた捕虜を生け贄として神に捧げるためです。

 

ティノチティトランの祭祀地区のピラミッドでも、神官たちが生け贄から心臓を取り出し、頭蓋骨を「スカルラック」という棚に起きました。

 

アルファベットはありませんが、表音、表意の機能を持つ絵文字があり、数々の絵文書や石像彫刻がそうした出来事を今に伝えています。

 

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↑拡大するとこんな文字です。

 

 

では、なぜ生け贄が必要だったのか?

 

その理由を解く鍵はアステカの創世神話にあると言われています。

 

日本人が年号や西暦、干支、六陽などさまざまな暦を使用しているように、アステカもまた複数の暦を用いていました。

 

基本となるのが365日の太陽暦と1年を260日に見立てた祭祀暦の2つです。

 

この2つを併用していると52年で1周期となるようです。

 

太陽神を崇拝するアステカの人々は、その創世神話において太陽は神がつくったものとして認識していました。

 

ここでは太陽や世界は不滅ではなく、いったん終わってはまた繰り返されるものとされていました。

 

現在の5番目の太陽は、1人の神が巨大な聖なる火に身を捧げたことで出現し、他の神々の命を代償に軌道を描き出したとされています。

 

この「命を捧げて太陽を動かすという神話が、生け贄の儀礼の大もとになった」と研究者は話しています。

 

そして神話の中ではひとつの太陽の時代が終わるのはいずれも52の倍数であったようです。

 

つまりアステカでは52年ごとに危機が到来し、太陽を動かすために犠牲が必要となるということになっているのです。


「人間は、神々が犠牲となって太陽となり自分たちをつくってくれたのだから、自分たちも太陽に活力を与えるために心臓を捧げなければならない」という考え方です。

 

こうした儀礼は日常的に行われていたようです。

 

「心臓を捧げるためには生け贄が必要で、そのためには戦争が必要だ」

 

という風にアステカの人々は太陽を動かしつづけるために戦争をしていたとも考えられているのです。

 

今回は、古代メキシコ文明のご紹介とその特徴について調べてきました。

 

機会があれば、ぜひ「古代メキシコ」展に足を運びください。

きっと新しい発見があると思いますよ!

 

 

 

ちょっと大阪に行ってきました その7

昨日の続きです。

 

古代メキシコ文明の1つのキーワードが「人身供犠」です。

 

では、なぜ「生贄」が、それほど重要視されたのでしょうか?

 

その点について深掘りしてみたいと思います。


現代の私たちからすれば、眉をひそめてしまう習慣です。

 

ところが当時の人々にとっては、社会の安寧秩序を保持するために、神々だけでなく自らをも犠牲にしなければならないという、利他精神に支えられた儀式だったのです。

 

 

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↑この石像の平らな部分は、お皿のようになっていて、そこに生贄の心臓などが乗せられたと言われています。

 


神と人間とが協力して初めて成し遂げられるピラミッドなどの造営には、人身供犠が付きものだったのです。

 

つまり、古代メキシコの考え方では、トウモロコシや動物たちによって人間が生かされていいます。

 

食物連鎖の頂点にある人間が、その連鎖の循環を保つために人間の命を自然界に捧げる、そんな「倫理観」のもとに生贄が供されていたというのです。


また、人間は神々が犠牲となって太陽となり自分たちをつくってくれたのだから、自分たちも太陽に活力を与えるために心臓を捧げなければならないという考え方もありました。

 

この信仰は紀元前15〜16世紀頃から約3千年にわたって信じられ、16世紀にスペインに侵攻されるまで続きました。


古典期マヤでは、王としての正統性を神々に認めてもらうために、戦争で捕らえた人々を人身供犠に供していたと考えられています。

 

同時に民衆に自分の力を誇示するためのパフォーマンスであったと考えられています。


当時の人々にとっては、社会の安寧秩序を保持するために、神々だけでなく自らをも犠牲にしなければならないという、利他精神に支えられた儀式だったのです。

 

それはメキシコ以外の文明でも例外ではありませんでした。


たとえば、メソポタミア文明のウルの王墓では、調査によって人身供犠の儀式が最も詳細に解明されています。


発掘者レナード・ウーリーの復元によれば、棺に入った王が墓室内に安置された後、戦車、人々や動物たちは斜めのスロープを下りて地下へ向かいます。

 

兵士・楽師たちはそれぞれ手に自らの道具を携えて整列し、めいめいが陶器製の小さな盃を手にしていました。

 

その中に入っていたのは毒薬です。

 

儀式が最高潮に達すると、それぞれが盃をあおり、静かに墓の中に崩れ落ちます。

 

そして、すべての儀式が終わると、土で埋め立てられ、王と死出の旅路を共にするのです。

 

古代メキシコ文明同様、メソポタミア文明でも神に自身を捧げる行為はたいへん名誉なことでした。


また、歴史の父と呼ばれるギリシャヘロドトスも、黒海沿岸のスキタイ王の埋葬について記録しています。

 

死せる王と共に殉死させられたのは、料理番、馬丁(ばてい)、侍従、馬などでした。

 

さらに、1年後には最も王に親しく仕えた侍臣50名が選出され、馬に乗せた状態で王墓の周りに立て並べられました。

 

つづく