hayatouriの日記

はやとうり の独り言

 「江戸の長屋」19 刑罰編

昨日の続きです。

 

「目黒行人坂の大火」とは?

 

以下ウィキペディアから引用です。

 

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「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺

出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主が盗みのために庫裡に放火したことによる。

真秀は火付盗賊改長官である長谷川宣雄長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年(1772年)4月ごろに捕縛され、同年6月21日(1772年7月21日)に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。


被害

2月29日(4月1日)13時ごろに目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。

一旦は小塚原付近で鎮火したものの、18時ごろに本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。

30日(4月2日)の昼ごろには鎮火したかに見えたが、3月1日(4月3日)の10時ごろ馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。

類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。

山王神社神田明神湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。

死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。

老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼した。この火災をきっかけに元号が明和から安永に改められた。

 

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この頃、農村でも台風や洪水、さらには、年貢がより多く徴収されたことで、破産した農民が「潰れ百姓」となって、大量に江戸へ流入し始めました。

 

彼らの大半は、仕事がないまま、街のあちこちに「無宿」となって溢れたのでした。

 

記録によれば、安永8年(1779)から5年間、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を務めた贄正寿(にえまさとし)は、江戸内で327人の犯罪者を捕らえました。

 

犯罪は小さなことから始まります。

 

罪状は、すべてが強盗・窃盗がらみで7割が無宿でした。

 

「敲(たたき)」に合ったものが149人→(軽敲(50回)・重敲(100回)、女性は代わりに50日・100日の牢舎(過怠牢)

 

「入墨」が61人→敲き刑や追放刑に付加された。江戸では左腕に2本線。これが3回になると死罪。

 

 

「死罪」は49人→(斬首の上、試し斬り。
十両以上の盗み。不義密通)

 

*この「斬首のうえ試し切り」については機会を見て詳しく紹介したいと思います

 

 

「獄門」→(市中引き廻しの上、斬首。試し斬り後、首は晒し。)

 

と「火罪(火あぶり)」→(市中引き廻しの上、磔柱に縛り付け火焙り)、は合わせて12人いました。

 

つづく