昨日の続きです。
イスラエルの建国に対して、様々な反対の動きが起こってきました。
世界各地にその暴動は広がります。
国際社会もこの問題を放置できない…という状況になっていきます。
そしてもう1つ、大きな動きがありました。
1991年にイスラエルから遠く離れたイラクで起きた湾岸戦争です。
イラクがクウェートに侵攻したことがきっかけで起きた戦争です。
このぐらい現在に近づくと、いろいろ記憶にある方も多いかと思います。
それに対してアメリカを中心とした多国籍軍が当時のサダム・フセイン大統領をクウェートから追い出します。
フセイン氏は旗色が悪くなる中で「アラブの正義のためにパレスチナを解放する」と言い出して、はるか遠くのイスラエルにミサイルを数十発も発射しました。
↑サダム・フサイン
アラブ世界の同情を集めようとしたわけです。
突如、パレスチナ問題を持ち出したような形ですが、国際社会には一定の影響力がありました。
国際社会から「パレスチナ問題を解決しないと世界で何が起きるかわからない」と事態打開を求める声が高まります。
そして、その後の歴史的な合意=オスロ合意へと向かっていくことになります。
長く続いた対立を経て、イスラエルとパレスチナは共存への道を模索することになるのです。
双方が和平に向けて歩み出したオスロ合意から現在の状況に至るまでのいきさつを見ていきたいと思います。
オスロ合意とはどういうものだったのでしょうか?
1993年、アメリカとノルウェーの仲介で、イスラエル・パレスチナ双方のトップにより交わされたのが、パレスチナ暫定自治合意、いわゆるオスロ合意です。
↑
左からイスラエル・ラビン首相 アメリカ・クリントン大統領、パレスチナ・アラファト議長
パレスチナに暫定自治区を設置して、いずれはイスラエル、パレスチナの双方が共存することを目指しましょうという内容です。
和平交渉の期限とされていた2000年までは楽観論が広がっていました。
双方の人たちや世界の多くが、共存できる夢のような時代がくるのではないかと思っていました。
ところが、2000年9月、当時右派の政治家でのちに首相になるシャロン氏が、エルサレムのイスラム教の聖地に足を踏み入れてしまいます。
右から二人目がシャロン氏
これまでもお示しした通り、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」の上には、イスラム教の聖地「岩のドーム」があり、互いに隣接しています。
シャロン氏は大勢の警察官に守られながら「嘆きの壁」の上側にある階段を上り「岩のドーム」を一回りして帰ってきました。
「私は平和の使者だ」と言いながら。
礼拝中だったイスラム教徒は、それを見て暴徒化しました。
そして今度はイスラエルの警察がそれを力ずくで鎮圧し、死傷者が出たのです。
これをきっかけに、各地で激しい衝突が始まってしまいます。約7年もの歳月をかけて築き上げてきた和平への希望が、わずか数日で崩れていきました。
つづく