前回の続きとなります。
それまで、虐げられた民族であったユダヤの人々。
イスラエルという国を建国してからは、なんと加害者として立ち振る舞うことになります。
イスラエルは、戦争前まで認められていた休戦ラインを越えて、国際法上認められていないところまで占領しました。
この時イスラエルは事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを占領することになったのです。
パレスチナ人は住み続けていますが、イスラエルが占領政策を続けていくことになりました。
入植地の建設も、これ以降加速します。
占領地での入植活動は、国際法に違反する行為です。
では入植活動とはどういうものでしょうか?
日本の外務省では、このように規定しています。
以下、外務省資料より
中東和平問題における入植地の問題とは、イスラエル人が、占領地である東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区に住宅を建設して、入植している問題です。
入植地の最終的な地位については、オスロ合意やロードマップ等にあるとおり、イスラエル・パレスチナ両者間の交渉で決定されるべきであり、日本は、両者間の交渉が早期に開始され妥結するよう求めていきます。
しかしながら、こうした入植地に対しては、パレスチナ側の強い反発があり、また、これを国際法違反とする国連安保理決議もあり、日本を含む国際社会は、イスラエルに対し、入植活動の凍結・停止を呼びかけてきています。
というように説明されています。
結局25年間で4回も戦争が繰り返されるのですが、毎度イスラエルが軍事的に圧倒します。
戦争に負け続けたアラブ側、パレスチナ側はその後どうなったのでしょうか?
このままでは耐えられないと「インティファーダ」と呼ばれる住民の抵抗運動が広がっていきます。
1987年12月8日、ガザ地区のジャバーリーヤ難民キャンプでの出来事です。
イスラエルの兵士が運転していた戦車運搬車が車に衝突、パレスチナ人4人が死亡しました。
この事件がきっかけとなって、いわゆる第1次インティファーダが起きたのです。
住民がイスラエル軍に石を投げて抵抗する運動です。
この運動がどんどん大きくなっていきました。
一方、パレスチナの外では、アラファト議長率いるPLO=パレスチナ解放機構という組織が各地でイスラエルに対する武装闘争を展開します。
ドイツのミュンヘンオリンピックで、イスラエル選手が襲われるテロもありました。
1972年9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件です。
↑事件現場のイスラエル選手団の宿舎
実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれています。
死亡者は17名(人質11名、犯人グループ5名、警官1名)となっています。
オリンピック開催中に発生し、イスラエルのアスリート11名が殺害されました。
パレスチナの中でも外でも、反イスラエルの運動が起きてきました。
つづく