昨日の続きです。
イスラエルのシャロン氏がエルサレムに姿を現したことでアラブ人の怒りが爆発します。
これを機に暴力の応酬が始まりました。
イスラエルの街中では、バスが吹き飛ばされるような爆弾テロが起きるようになりました。
これに対してイスラエルは、パレスチナの過激派の拠点を空爆します。
衝突が長期化していく中、イスラエルの世論が右傾化し、選挙であのシャロン氏が首相になります。
シャロン首相は、ヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁をつくりました。
テロリストがイスラエル側に入ってこないようにするためのものであるとの主張です。
(あとで登場しますが、アメリカのトランプ大統領も「不法移民阻止のためメキシコとの国境に壁を作る!」とか言ってましたが、なんだか発想がそっくりです)
2002年からパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)との間に、長大な分離壁の建設を開始しました。
2003年12月、国連総会は国際司法裁判所に対して、分離壁の建設に関する勧告意見を出す要請をしました。
2004年7月、この要請を受けた国際司法裁判所は、「パレスチナ人の土地に壁を建設することは違法であり、撤去されなければならず、パレスチナ人に対してイスラエルは補償を支払わなければならない。」とする勧告意見を出しています。
高さは、最も高いところで8メートル、全長は700キロ以上にもなります。
またイスラエルは、2007年からガザの人々や物資の行き来を完全にストップしています。
食料さえも、人口に対してイスラエル軍が計算した最低限度のカロリーベースを充足させるためだけのものしか認めない時期もあった位です。
海に出ようとする漁師の船を撃沈したり、壁から1キロ以内の土地に入っての農作業をする住民を容赦なく狙撃していました。
今はパレスチナ自治政府がヨルダン川西岸地区を統治するパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハと、ガザ地区を統治するハマスに分かれています。
なぜそうなったのでしょう?
1948年のイスラエルとアラブ諸国の第1次中東戦争の結果、パレスチナ側に残った土地が、ヨルダンが占領したヨルダン川西岸地区と、エジプトが占領したガザ地区という飛び地でした。
2006年、欧米諸国の肝入りでパレスチナ自治政府の選挙が行われるのですが、欧米諸国やイスラエルの目論見に反した結果となるのです。
武力闘争を放棄せず、パレスチナの全土解放を目指し抵抗を続けるハマスが選挙で圧勝してしまうのです。
この結果が気に入らない欧米諸国は、パレスチナ自治政府への資金援助を止めます。
それに加えファタハに対して、ハマスに圧力をかけるよう働きかけるのです。
短い内戦の結果、ファタハはハマスに敗北することになり、ファタハはヨルダン川西岸地区に逃げ込んでしまいます。
このような結果でヨルダン川西岸地区の「自治政府」はファタハ、ガザ地区はハマスという支配関係になりました。
つづく