昨日の続きです。
江戸では大工が人気職業のトップでした。
その理由は、稼ぎが多く子供を大工にさせたい親も大勢いました。
「火事と喧嘩は江戸の華」というフレーズを聞かれた方も多いかと思います。
とにかく、江戸は火事が多かったのです。
当時の建物はほぼ木造ですから、火事が起こるとひとたまりもありません。
焼け落ちた建物を再建するには、建築に関係する職人が必要です。
そのため、建物を建てる大工は「番匠」とも呼ばれ、職人の中でも花形で収入が多かったのです。
京都や大坂では、京都にいる大工頭中井家に金を払い鑑札(免許証)をもらわなければ仕事ができず、また毎年「槌代(つちだい)」納めなければなければなりませんでした。
しかし、江戸ではそういう事はなく比較的自由に大工に参入できました。
「明暦の大火」のような江戸を焼き尽くす火事の後には、大工の手間賃が高騰し、通常の倍になることもありました。
これには幕府が値下げするように通達を出しています。
ところが、翌年にも同じような「お触れ」を出していますので、なかなか守られていなかったようです。
大工は職人の花形ですが、もちろん、建物は大工だけではできません。
木挽き(製材)、壁を塗る左官、襖や障子を貼る経師(きょうじ)、さらに現場で様々な雑用こなす仕事師(今で言うところの鳶職)といった建築関係の職人も、江戸には大勢いました。
建物を建てるときにはこうした職人たちを大工の棟梁が仕切りました。
職人たちを仕切る大工の棟梁になるためには、「指図(さしず)」と呼ばれる図面を作るために、文字が読み書きできなければなりませんでした。
ちなみに余談ですが、今では「指図する」といえば、命令をして人を動かす意味で捉えられますが、元はと言えば「指図」の語源はこのように「図面・絵図面・案内図・家の見取り図・設計図」などを意味していました。
その「(絵図を)指し示す」という意味が転じて、「指図」は「人に指示・命令して仕事などをさせること」を意味する言葉になったのです。
ちょっと脱線してしまいました💦
大工の棟梁は、その上に配下の者たちの手間賃や材料費等の計算のために、算盤もこなさなければなりませんでした。
よく落語に出てくる裏長屋の八つぁんや熊さんは読み書きそろばんができないことが多いです。
難しいことがあれば、大家に聞きに行ったり、教えてもらうのがほとんどです。
それに比べれば、やはり人の上に立つ大工の棟梁は人一倍勉強しなければならなかったようです。
つづく