昨日の続きです。
地方で飢饉や凶作が起きたとき、江戸に多くの農民がなだれ込んだと昨日紹介しました。
彼らは、江戸に定住すると、今まで培ってきた技術を生かして、大工や魚屋などの職人になる者もいました。
そんな特別な技術を持っていなくても、就職可能な棒手振り(ぼてふり) =行商人になるものも多くいました。
要するに、体力があれば魚河岸などの荷揚げや大八車で荷物を運ぶ車力や駕籠かきなどの力仕事についたのでした。
職人の場合は、顧客の下に出向いて仕事をする出職(でしょく)、屋内に作業場を持つ居職(いしょく)の2種類がありました。
どちらも親方の職人から仕事を分けてもらい、出来高払いで手間賃を稼ぐ手間取りでした。
前述しましたが、特に江戸は火災が多発しましたので、建築業を中心に職人は、仕事に事欠かないない状態だったと言われています。
商人の場合は、少しの元手があれば市場で、野菜や魚などをの食べ物を仕入れて行商の形で売ったり、蕎麦や寿司など自分で調理した食べ物を売りました。
先ほども登場しましたが、「棒手振り」といって天秤棒を担いでものを売り歩いたのです。
いずれの職業にせよ、その日稼ぎの仕事でしたが、言い換えると江戸では、日々の稼ぎでやっていけたという証明でもあります。
実はそれを底辺で支えていたのが、家賃の安い長屋生活であったわけです。
しかし、一方、雨など悪天候の日は仕事は休みとなって収入はありません。
仕方なく長屋でダラダラと過ごすことになります。
このように、その日ぐらしの生活を支えた長屋の生活空間が6畳であるということはこの前に書かせて貰いました。
隣との壁は本当に薄いものです。
この辺の日常は、落語の中にいくらでも登場します。
話し合う声は隣にほとんど筒抜けです。
現代で言うところのプライバシーなんぞは存在しません。
そして、水を汲んだり洗い物をするたびに、長屋の外に出て、井戸等の共有スペースに行かなければなりませんでした。
そうすれば、さらに隣近所との付き合いが濃厚になってしまいます。
そのかわり、長屋の住人たちの間では、コミニケーションが大変取りやすかったというメリットもありました。
お互いが助け合って生活することで、皆が貧しくても何とか暮らして行けたのです。
今度のブログで、最初に紹介した本
『本所おけら長屋』は、まさにそんな長屋のお話なのです。
つづく