昨日の続きです。
大工の棟梁は勉強しなければいけないというお話を書かせていただいてます。
すべての建築に関わる職人を束ねるのですから人格も必要だったのでしょう。
江戸の職人には「出職」と「居職」がありました。
読んで字のごとく、前者は仕事の現場に出かけて外で働く職人たちのことをいいます。
後者は、裏長屋を住居兼仕事場にして働いている職人のことをいいます。
例えば「出職」には、畳職人、鳶職、左官、屋根葺きなどの職人がいます。
畳はかつてお偉い人が座るとこだけに敷かれていた高級品でしたが、江戸半ばでは庶民の家でも畳が広まりました。
鳶職は、建築現場で足場を組むのが主な仕事でしたが、高いところに登る職人であることから、火消しとしても活躍しました。
屋根葺きはどんな仕事かといいますと、庶民の住む裏長屋は、安普請で柱が瓦の重さに耐えられませんでした。
そこで、木の板で屋根を葺くことが一般的でしたが、その仕事を担った職人のことをいいます。
一方、しっかりした家を建てられるそこそこ裕福な人たちは瓦を利用しました。
何しろ火事が多いので、防火のために屋根を瓦葺きにすることが奨励されましたので瓦職人も大勢いました。
また、江戸では火事の時に穴倉と呼ばれる地下室を作り、その中に大事なものを入れて荷物を火事から守っていました。
土蔵よりも簡単にできて、費用もかからなかったことから人気があり、穴倉を造る「穴倉職人」も多かったようです。
「居職」で典型的なものは、テレビなどでよく見かける「傘張り」や杉やヒノキを使って容器を作る「曲物師」、藍染物を行う「紺屋」などもいました。
ちなみに、今でも「紺屋町」という地名をよく見かけますが、これはその昔その辺に染め物職人がたくさん住んでいたのでこの名前になったものです。
出職の職人は、雨が降ると仕事ができないので休みとなりますが、居職は天候に関係なく作業が行えます。
また居職の職人たちの中には、店先で商品を作りながら販売する者もいて、カスタムメイドやオーダーメイドが当たり前に行われていました。
江戸の人口の半分は武士であったと言われていますから、刀鍛冶や甲胄師等武具に関する職人も多くいました。
こうした職人たちは、幼い頃から親方について修行して腕を磨き、自分の技術があれば食べていけるという自信がありました。
よく江戸っ子は「宵越しの銭は持たねえ」などと啖呵を切りますが、それは「明日の銭は何とかなる」という自信の表れでもあります。
とにかく江戸はこのように活気のある街だったのです。
しかし、人とお金が集まれば犯罪も増えてきます。
次回は、江戸の苛烈な刑罰について調べてみたいと思います。
つづく