前回ちょっと横道にそれましたので、話をもとに戻します。
江戸の刑罰について調べていました。
江戸時代の主な罪状と刑罰ですが「性犯罪」まで来ていましたが、あと1つあります。
最後に強盗窃盗です。
これは盗んだ金額によって形の重さが違いました。
十両以上は死罪だったのです。
十両未満は敲きのうえ入墨、また窃盗を3回捕縛されても資材となりました。
1つ特異な事件がありました。
天保5年(1834)、一両相当の櫛を万引きしたという播州無宿木鼠吉五郎(きねずみきちごろう) は、既に入墨刑を受けていたので、死罪にならないために万引きを否認し続けていました。
拷問は老中の許可を得て行いますが、白状しないとなると、幕府の威光に関わるということになります。
何しろ、拷問すれば白状すると老中が認めているのですから。
そのため、吉五郎に対しては3年間にわたり26回の拷問に及びました。
吉五郎は何度も死にかけましたが、犯行を認めませんでした。
ついには北町奉行所が音を上げて吟味を断念してしまいました。
そこで老中が「※察斗詰(さつとづめ)」によって資材にしてしまいました。
※町奉行所の与力が書いた文章の中に、「察斗詰(さっとづめ)」という言葉があります。
自白は得られないけれど、さまざまな証拠を積み重ねて、犯人に間違いないと判断することです。
これは前例が乏しいので、評定所まで伺いを立てて、一件落着の裁許を得なければなりませんでした。
昔は、現在の警察でも「自白は証拠の王」とかいう自白重視の考え方があったそうです。
自白をもって一件落着とする考え方が、江戸時代から連綿と続いていることことが伺いしれます。
火付盗賊改のそうした手法が、多くの冤罪を生んだことは否定できません。
江戸の庶民が火付盗賊改を恐れ、憎んだのは当然です。
ところが、わずかな例ですが、拷問に耐えられずに偽りの自白をして御仕置になった雇い人を救おうと、力を合わせて無罪の証拠を集め、お上に訴えてとうとう無罪を勝ち取った町人たちもいました。
江戸っ子もなかなか捨てたものではありません。
この事案の吉五郎に関しては、「自白主義」を唱えていた幕府の面目を失ってしまったのです。
死刑は、担当の奉行から評定所、そして老中の裁定、将軍の決済と言う段階を全てクリアして初めて執行されました。
その死刑には、「鋸挽(のこぎりびき)」「磔」「獄門」「火罪」「死罪」「下手人」6種類あり、さらに武士には「切腹」と「斬罪」がありました。
つづく