hayatouriの日記

はやとうり の独り言

猪の思い出 その2

昨日の続きです。

 

朝起きて、玄関を開けると目の前に、重さにすれば、50〜 60キロ程度の猪が横たわっているのです!!

 

驚きました!

 

全国のご家庭は数々あれど、玄関前で猪が死んでいた家なんておそらく我が家だけなのではないでしょうか?

 

猪は確実に死んでいました。

 

病気で痩せてるわけでもなく、丸々と太ったいかにもおいしそうな感じでしたが、死因がわからないだけに食べるのはちょっと・・・

 

早速、うちの親父が猟友会の知人に電話したところ、急いで猪を取りにきました。  

 

その方たちは「食べる気満々」できましたが、持ち帰った、その後食べたかどうかは確認していません。

 

実は、うちの親父も50年ほど前のまだ若かった頃、猟犬を飼い、鉄砲持って山で猪を追いかけていました。

 

その頃には、犬は3匹ほどいましたが、特に大きく凶暴な1匹の雑種の洋犬がいました。

 

山の動物などを追いかけると、必ず吠えながら追いかけるので、後を追いかけるのに、ずいぶん楽な犬でした。

  

日本犬は少し違って、もちろん吠えながら、追いかけたりもしますが、山の崖っぷちなどに猪を押し留めて、吠えて逃げないようにしておいて、ハンターの応援を待つというようなパターンですね。

 

ところがある日、山から帰ってきたこの犬の様子が何やらおかしくなったのです。

 

バタリ倒れたと思ったら痙攣を始め、しばらくすると回復。

 

これを繰り返すようになりました。

 

結局、この犬は泡を吹いて死んでしまいました。

 

しばらくして、遠方から獣医さんが駆けつけてくれましたが、間に合いませんでした。

 

親父も希望し、念のため解剖を行うことになりました。

 

胃の内容物を調べると肉が出てきました。

 

我が家で与えたものではないので、考えられる事は、山のどこかで倒れた猪を見つけ、その内臓を食べたのではないかということです。

 

前回のブログでも紹介しましたが、この当時は農薬入りのサツマイモを畑の周りに置いて、猪に食べさせるという「危険」な対応をする農家も多かったのです。

 

目の前で犬が悶絶しながら生き絶えるのを、何もできずに、じっと見つめることしかできませんでした。

 

しかし、親父の猪取りは終わりませんでした。

 

さすがに鉄砲の管理が厳しいので、こいつは手放しましたが、その後「くくり罠」免許をとって、もっぱらこれで猪をとっていました。

 

これは全く余談ですが、私が大学生の頃、ちょうど今の成田空港建設の時、「三里塚闘争」という建設反対の住民運動学生運動が起こっていました。

 

もうその頃は、だいぶ下火になっていましたが、当時、大学にいた学生の実家が猟銃などを持っているとかなり入念に警察のチェックを受けました。

 

例の「あさま山荘事件」のような武装が起こらぬよう、警察も相当目を光らせていたようです。

 

追伸 明日から正月元旦までお父さんと孫たちが我が家にやってくることになりました。

少しバタバタすると思いますので、お正月明けまでブログは少し中断させていただきます。

 

今年1年間ブログを読んでいただいてありがとうございました。

皆様も、ぜひ良いお年をお迎えくださいますように。

 

正月明けにつづく!