昨日の続きです。
昨日は、江戸の町人でも、いろいろな居住形態があると調べました。
山田洋次監督が、わざわざ「裏長屋」と名前をつけたのには、やはり意味があるわけですね。
確かに裏長屋は家賃が安い!
しかし、生活環境はとてもひどいものでした。
裏店借が住んだ長屋は俗に「九尺二間の裏長屋」と呼ばれていて、間口が九尺(約2.7m)、奥行きが二間(約3.6m)となっており、その大きさは約六畳しかありません。
長屋は、今のプレハブ住宅のような画一化された簡素な作りとなっていました。
建築費が安く抑えられる分、家賃も安くできました。
貧しい庶民の味方「裏長屋」だから?
いえいえ、地主たちの考えは少し違っていました。
そもそも江戸は、火災多発都市だったことが背景にあります。
建物は、絶えず焼失の危機にさらされていたのですから、建築に金をかけても無駄なのです。
地主はそんなリスクを取らなかったのです。
ここからは長屋の生活を見ていきましょう。
前述の通り、長屋住まいは生活空間がわずか六畳ほどしかありません。
ですから、水を汲む井戸や厠(かわや)、風呂等を備え付けるスペースなど全くありませんでした。
そこで長屋の外に井戸等の共有スペースが設置されることになります。
余談ですが、私が大学時代に住んでボロ学生アパートも似たようなものでした。
大きな家の中に部屋があります。
廊下を真ん中に両サイドに各3つ、小さな押し入れがある4畳半の個室があります。
2階も同じ造りです。
炊事場は共同、トイレも共同、電話は公衆電話1台そして風呂は銭湯へ。
当時、陽のあたる部屋は10,000円、陽の当たらない部屋は9000円の家賃でした。
私の部屋の家賃は9000円。
なぜなら先輩たちが陽のあたる部屋を独占していたからです。
壁と柱の間が空いていたので、新聞を折りたたんで隙間を防いでいました。
まぁこれを書き出すと終わりが来ないので、元に戻しますね。
裏店の住人たちも、自分の家を出て井戸や厠を共同で使っていました。
洗い場や物干し場についても全く同じでした。
逆に考えれば、井戸等の共用スペースで、住民同士のコミュニケーションが非常に取りやすい生活環境にあったのです。
テレビやドラマでよくあるような長屋の井戸端会議が日常茶飯事だったに違いありません。
しかし、どうしても共用スペースが狭かったことから、井戸と厠(トイレ)は近づいてしまいます。
これは衛生上好ましい環境でありませんでした。
コレラなどの伝染病が流行しやすい環境だったわけです。
つづく