さて、話を「天ぷら」に戻しましょう。
天ぷらも江戸で生まれた料理です。
これも屋台で商われていました。
屋台でも食べやすいように、すべてのネタに串が刺してあり、客は丼に入った天つゆにつけて大根おろしをのせて食べたと言われています。
天ぷら・寿司と並ぶ江戸名物のうなぎの蒲焼も、最初は野外で焼きながら売っていました。
それがだんだん評判になって店を構え、高級化していって、庶民には食べることができない値段になってしまいました。
どんな種類の屋台があったのでしょうか?
今ならひょっとすればキッチンカーも「屋台」と呼べるものがかもしれません。
江戸の屋台には、寿司などの軽食だけではなく、汁粉や団子、水菓子と呼ばれていた果物などの甘いもの、甘酒や冷水などの飲み物、さらには酒を飲ませる店もありました。
人も集まるところに店を出し、大抵八文や一六文で売っていたので、あまりお金がなくても買うことができたようです。
例えば、「大江戸両国橋夕涼大花火之図」を見てみましょう。
現在の隅田川の花火は、上流の浅草周辺で行われていますが、もともとは両国橋のそばで始まったのです。
ちなみにこの場面でも花火が炸裂していますが、当時大きな花火屋さんは2つありました。
「鍵屋」と「玉屋」です。
(あ〜、また何か脱線しそうな雰囲気が・・)
図のように、両国の大川(現在の隅田川)にて川開き花火大会(隅田川花火大会の原型)が開催されていました。
そこで活躍したのが日本橋横山町の花火師、鍵屋六代目弥兵衛でした。
「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗ります。
やがて川の上流を「玉屋(たまや)」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演となりました 。
これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。
「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛は江戸から追放になり「玉屋」は廃業しました。
つまり、「鍵屋」から暖簾分けした「玉屋」が存在したのはたった35年間だったのです。
しかし、昔も今も花火の掛け声といえば「玉屋」のほうが断然多いのはなぜでしょう?
どうやら、花火そのものは玉屋の方が美しかったようです。
「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」
落語の中でもこのフレーズはよく使われます。
これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示したものともいえます。
また「情」に「錠」をかけており
「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」
という詠み手の洒落を含んでもいるようです。
両国橋のたもとは、普段から多くの屋台が出る江戸の盛り場の1つでした。
さて、もう一度この両国橋を見てみましょう。
花火のときにはより多くの人で賑わっています。
手前橋のたもとの傘の下で、何やら袋を売ろうとしている男性がいます。
よく見ると、男性の左側に「飴」とちょうちんみたいな看板が出てありますから飴屋です。
画面左端中央あたりに「水菓子」屋さんが描かれています。
これはどうやらスイカのようですし、その隣に瓜のようなものもありますね。
場面手前中程にはスイカを今まさにかじろうとする男の子が描かれています。
その男の子の少し右側には「水売り」の男性が描かれています。
手に柄杓を持って桶から水を汲んで鉢に入れています。
どんなものを売っていたかというと、冷たい水に砂糖と白玉を入れて一杯四文(約80円)で売っていました。
「ひゃっこ、ひゃっこ!」という声とともに、客寄せをして、金を足せば砂糖の増量もしてくれました。
吉野家の牛丼で例えば「つゆだくとトッピング」みたいなモノでしょうか。
つづく