前回の続きです。
これまでブログでご紹介したように、江戸の街には圧倒的に大勢の単身男性たちがいました。
徳川幕府によって作られた町ですから、国元から大名に従ってやってきた武士たちが多く住んでいました。
また、体1つで江戸にやってきて一旗あげようという連中も多かったのです。
外食産業も隆盛を極めました。
それは今でもそうですが、一人暮らしだと料理をするのが何かと億劫です。
ましてや煮炊きをするための火を起こすにも一苦労した時代です。
江戸の外食産業が盛んになったのは、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」の後だったと言われています。
灰と化した江戸の街を復興するために、集まってきた人たちに昼食を出したのが料理屋の始まりで、1日に3回食事をする習慣が定着するきっかけになったと言われています。
中でも、浅草に生まれた「奈良茶飯」屋は茶漬けに豆腐汁と簡単なおかずが付いた定食を出して評判となりました。
なぜなら、江戸の人たちは気が短く、注文したらすぐに出てきて、さっと食べ終えることができるところが受けたのだそうです。
いかにもお茶漬けでは、腹持ちが悪いと思われますが、江戸の職人は「腹がいっぱいになると動けない」ことから、大飯食らいをずいぶん嫌厭したそうです。
客の気が短いと食べ物自体も変化をします。
皆さんご存知の通り、寿司は、もともと魚を保存するために、米に漬け込んだ食品です。
「鮒寿司」などがその典型です。
米は発酵が進むと酸っぱい味になりますが、それには数年間重しをして漬け込む必要があります。
食する際にも発酵した米は捨ててしまうものでした。
それをより早く食べられるように工夫したのが現在箱寿司または押し寿司と呼ばれる寿司です。
酢でしめた魚を酢飯の上に乗せ、数日から数時間重しをかけて食べるものです。
ところが江戸っ子はこの時間さえも嫌がりました。
そこで握った酢飯の上に、酢でしめたり醤油につけ込んだりした魚をのせて食べ始めました。
これが現在の握り寿司の発祥です。
つまりは当時のファーストフードです。
握り寿司は、最初は屋台で売り出されました。
握っておいたものを好きなように食べて代金を払います。
1つが八文(約160円)か十六文(約320円)でした。
そうそう、天ぷらやうなぎの蒲焼もありました。
次回は天ぷらやうなぎの蒲焼についてご紹介していきたいと思います。
つづく