前回の続きです。
これはドラマや映画で皆さんもご存知かと思います。
切腹をするのが大名ならば「大名預け」となって、座敷で切腹することになります。
ところが浅野長矩は、陸奥一関藩主(むついちのせきはんしゅ)の田村右京大夫の屋敷の庭で切腹となっています。
これは500石以上の旗本の切腹の仕方で、大名に対するものではありませんでした。
よって検使役の大目付は大きなミスを犯したとして罷免されてしまいました。
500石以下の旗本の場合は大名屋敷ではなく、籠屋敷の庭で行われ、元禄15年から幕末まで約20人の旗本が切腹になっています。
ちゃんとした切腹の作法ですが、切腹をする武士の左に介錯人が立って位置取ります。
解釈人の左横には介添え人が座ります。
正面には検使正使役が右、検使副役が左に腰掛けます。
その後には出役同心4人、牢屋見回り同心2人、牢屋奉行1人、鍵役4人が立ち合います。
介添え人が切腹人の裃(かみしも)の襟元をはだかせてから、合図の咳をします。
すると牢屋同心が目配せして係が、三方台の上の加田直切腹人の前に置きます。
腹部を切り裂いても死亡するまで時間がかかるため、直後に介錯人が首をはねるのです。
なかなか想像しただけで、息が詰まりそうな絵が浮かんできますが当時としてはごく当たり前の日常だったのです。
若年寄、田沼意知(たぬまおきとも)を江戸城で、切り付けて死に至らせた400石の旗本佐野善左衛門は、評定所で切腹を申し渡されると、牢屋敷で夕刻を待って実行されました。
なお幕府は、歴代将軍や現将軍の近親者の命日と儀式のある日にはお仕置き(処刑)は執行しませんでした。
武士の刑罰で、死刑についで重いのは「改易」(かいえき)といいます。
身分も家屋敷も取り上げられるのです。
旗本だけでなく大名の場合もあり、数百人の家臣が失業するのです。
そこまでいかない「役儀取り上げ(御役御免)」は、役職を失うものの、御家取り潰しは免れます。
さらに、武士に特徴的な刑罰には「閉門」「逼塞(ひっそく)」「遠慮」「戸〆」「押込」「蟄居」「御預け」など、すべて自由を制限される形があり、ずいぶん細かい定めがありました。
つづく