昨日の続きです。
三十三間堂の通し矢が世間の注目を集めていた頃の話です。
体力と技が必要とされる弓道で偉業を成し遂げた1人の男がいました。
男の名は和佐大八郎(わさだいはちろう)。
寛文3年(1663)和歌山に生まれた大八郎は、14歳にして身長が2mにも達したといわれる大男でした。
紀州藩の弓術師範吉見台右衛門の指導のもと、弓の実力を伸ばしました。
当時、京都の三十三間堂では全長約121mの軒下空間で弓を射通す「通し矢」が盛んに行われ、世間の評判となっていました。
まさに武士や藩が命をかけてその弓の腕を競い合っていたのです。
なかでも一昼夜(24時間)矢数無制限で射続ける「大矢数」が人気でした。
尾張藩の星野勘左衛門が寛文9年(1669)に総矢数1万542本のうち8000本成功という大記録を打ち立てていました。
当初は、諸藩が競うように、弓道家を立てて、記録が目まぐるしく更新して行きました。
しかし京までの遠征費用だけでなく、三十三間堂でのその他一切の費用すべてを出場する藩が負担する必要がありました。
そのこともあって、最後には、尾張藩と紀州藩だけが残り、まるで一騎打ちのような様相を帯びていたのです。
それと両藩とも徳川家と血縁でもあり、互いに負けられない戦いだと間違いなく思っていました。
尾張藩の星野勘左衛門に挑戦、記録を打ち破ったのが貞享3年(1686)、当時24歳の大八郎です。
既にご紹介した通り大八郎は6尺を超える大男。
三十三間堂に登場したときには、観客から大きなどよめきが上がったといいます。
しかしこの時、大八郎は父和佐森右衛門から預けられた切腹用の脇差を用意していたといわれています。
天下一になれなかったときには切腹を決意していたのです。
紀州藩内では、大八郎の出場に異論がないわけではありませんでした。
藩内の重臣たちは、葛西薗右衛門が第一人者だと思っていました。
そして大八郎と薗右衛門、二人とも吉見台右衛門の弟子でした。
しかし薗右衛門は三十六歳、大八郎はまだ二十四歳。
師の吉見台右衛門は考えました。
一昼夜、射通すことの凄味を。
つづく