武士の刑罰編スタートです。
これまでは、庶民に関わる江戸の刑罰を見てきましたが、武士には、武士の刑罰がありました。
皆さんがすぐ思いつくものは「切腹」ではないでしょうか?
でも、切腹は名誉な事だったのです。
それも後ほどご紹介したいと思います。
江戸に暮らす住民のおよそ半数の約50万人は町奉行所の支配を受けていました。
犯罪を犯したその裁きを受けました。
もう半数の人々の武士(幕臣、大名家臣)はどうなっていたでしょうか?
幕臣は、それぞれの「頭」の支配に、また藩士は藩主の支配に従いました。
幕府は武士を農民や町民の上に立つ身分としたので、武士の刑罰は特別に扱われました。
しかし『御定書百箇条』(刑法・刑訴・民訴などを定めた江戸幕府の刑事関係法規書)に記載はなく、問題が起きたときに判断されました。
武士に科された、刑罰は10種類を超えます。
最も重い死刑は「斬罪」と「切腹」の2種類です。
前者は、御家人以上のものが放火・強盗・殺人などの重罪を犯した場合で、町人ならば火罪や磔・獄門・死罪になりますが、そこはさすがに幕臣を火あぶりや磔にするわけにはいきません。
「斬罪」は「死罪」と同様に斬首されるわけですが、牢屋敷ではなく、小塚原か鈴ヶ森の刑場で執行されました。
武士らしく、目隠しはされなかったようです。その後も様切り(ためしぎり)はされませんでした。
そして遺骸は願い出れば引き渡されたようです。
もう一方の「切腹」は、御目見(おめみえ)以上の大名と旗本が科せられる名誉刑的な死刑でした。
皆さんもご存知の通り「切腹」とは言いますが、実際は介錯人(かいしゃくにん)による斬首です。
介錯人と聞けば、今の皆さんならまず思い浮かぶのが映画やドラマの「子連れ狼」の乳母車を押す、大五郎の父の拝一刀(おがみいっとう)ではないでしょうか。
ドラマ上での彼の仕事は「公儀介錯人」でございました。
実際の公儀解釈人は「人斬り浅右衛門」とよばれた「山田 浅右衛門」がいましたが、彼ついてはまた改めてご紹介したいと思います。
そもそもどんな罪上が切腹になるかも『御定書百箇条』に記載がありません。
ドラマなどで最も有名で知られている「切腹」といえば・・
「忠臣蔵」の事件の発端となったあの場面ですね。
浅野内匠頭が腹を召されるあのシーンです。
「おっ、おっ、遅かりし~内蔵助~~!」
そうです!きちんと書けば元禄14年(1701)に赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷に及んだ事件です。
つづく