昨日の続きです。
ユダヤ人とユダヤ教は表裏一体のものでなければならないし、実際にそうであるのです。
そこでイエスは考えます。
「人間はユダヤ人だけではない」と。
神を信じてさえいれば、ユダヤ人ではなくても救われるという考えを広め始めたのです。
これを「ユダヤ教改革」と呼びます。
つまりイエスは、ユダヤ教の中にありながらユダヤ教を改革しようとしたのです。
イエスの言う「神を信じるものは救われる(たとえユダヤ人でなくても)」とは何を意味をするのでしょうか。
ポイントは信仰とされる対象がイエスではなく、神だということです。
この頃、イエスは自分が神だとは全く思っていないのです。
当然、このようなイエスの考えは、旧来のユダヤ教を信じる人たちと衝突します。
なぜなら、ユダヤ教の戒律を離れてしまったからです。
そこからイエスはさまざまの攻撃を受け、仲間から裏切られたり反逆者として逮捕されることになります。
これも有名な話ですが、レオナルドダヴィンチが描いた「最後の晩餐」にも1人の裏切り者が描かれていますね。
余談になりますが、イエスの正面のテーブルの上にはたくさんのパンと思われるものが並んでいますね。
テーブルを🎼に見立てて、パンを音符🎵として置き換えるとします。
当時は右から音符を読んでいましたので、その通りに演奏すると、ちょうどユダの前で不協和音が発生するとも言われています。
もしダヴィンチが意図して、それをしたならば、まさに天才恐るべしです!
そうです、裏切り者はこのユダですね。
当時は(現在の地域としてのパレスチナ)この地方はローマ帝国に支配されていましたから、イエスはローマ帝国に引き渡されることとなります。
ついには、他の罪人と同じように死刑となります。
私たちの頭に浮かぶのは、やはり十字架で処刑をされるイエスの姿です。
知らず知らずのうちに、様々な絵画などでインプットされているのでしょうね。
しかも先入観として、キリスト1人が「重罪」を背負って処刑されていると思っていませんか?
当時、ローマ帝国は非常に残酷な死罪を犯罪者に与えていました。
基本的には十字架での磔です。
しかも、両手を釘で打ち付けて十字架から落ちないようにし、下から兵士が両脇を突き刺すというやり方でした。
仲間に裏切られ、ローマ帝国に連れてこられ、その上、残酷な方法で死刑を受けなければならなかったというような悲劇です。
しかし・・・
つづく