昨日の続きです。
そもそも明治神宮外苑はどのような経過で出来上がったのでしょうか?
明治神宮外苑ができたのは1926年と言いますから、今から約100年前です。
スポーツ、文化、施設、緑地や公園などの空間を作り上げるため、実は多くの国民や市民が献木したり、献金してできた公園の歴史があります。
そこでICOMOSは「市民の献金と、労働奉仕により作り出された世界の公演でも類例のない文化遺産」だと評価しています。
「伐採や移植によって、この環境が完膚なきままでに破壊される」との警鐘を鳴らしています。
※International Council on Monuments and Sites、略称 ICOMOS
国際記念物遺跡会議は、世界の歴史的な記念物、文化遺産および遺跡の保存に関わる専門家の国際的な非政府組織であり、ユネスコのヴェネツィア憲章に基づき設置された記念物および遺跡の保護に関するユネスコの諮問機関である。
以上はウィキペディアより引用
このように、明治神宮外苑はもともと国民や市民と非常に密着した形で、出来上がった公園だったのです。
そこに「再開発」という仮面をかぶった「地上げ」が始まるのです。
どのように「地上げ」が計画されたのか、その経過を少し追ってみたいと思います。
神宮外苑には「霞ヶ丘団地」という300世帯が住んでいる東京都の団地がありました。
この団地は高齢世帯ばかりが住んでいる団地でした。
実際に居住している人々が対象地域にいることは、「施工者」側には実に厄介な問題です。
その団地を撤去しなければ、新国立競技場は建設できない状況にありました。
このことで、建設関係者が頭を悩ませていたところ、東京にオリンピックが誘致できるかもしれないという情報が入ってきました。
2016年開催のオリンピックは誘致できませんでしたが、逆に2020年に東京にオリンピックが誘致できれば、それにかこつけて団地の300世帯を撤去させることができると判断したのです。
2013年(平成25)年9月8日、国際オリンピック委員会(IOC)総会がアルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスで開催されました。
そこで2020年のオリンピック・パラリンピック夏季大会の開催地に、東京都を選定しました。
選手たちが飛び上がり、抱き合って喜ぶ「決定の瞬間」を記憶している方も多いのではないでしょうか?
その結果2018年には、この団地は姿を消しました。
この団地の消滅にも実は「あの男」たちが暗躍していたののです。
つづく