hayatouriの日記

はやとうり の独り言

三十三間堂の通し矢について  その1

 

コロナ禍になってからなかなか行けていませんが、私は京都の街が好きです。

 

もう何度も行っているのですが三十三間堂に魅力を感じます。

 

久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲ります。

 

上皇として「院政」を行いました。

 

三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されたとのことです。

 

三十三間堂といえば、国宝千手観音坐像や国宝千体千手観音立像が特に有名です。

 

何度拝観してもそのスケールの大きさに圧倒されます。

 

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国宝千手観音坐像

 

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国宝千体千手観音立像

 

私なんかはこんな立派な国宝が1日何千人という参拝者に公開されているということにびっくりしてしまいます。

 

保存や安全の確保は大丈夫なのだろうかといつも考えてしまいます。

皆さんも機会があればぜひ参拝して日本の宝に触れていただきたいと思います。

さてここから本題となりますが、皆さんもご存じのように三十三間堂のもう一つの顔といえば、ここで「通し矢」が長年にわたって行われていたということです。

 

「通し矢」は現在でも三十三間堂で形式的にですが、成人式などで行われています。

 

三十三間堂での“通し矢の歴史”の解説によると

 

「いつの頃、始められたか明確でないが、既に室町期『洛中洛外図』には三十三間堂で矢を射る者が描かれており、かなり古い歴史を持っていると思われる。

 

とくに流行をみるようになったのは、天正年中(1573~1592)に今熊野観音堂別当が射芸を好みふとした思い付きで『堂通し』をしたのが契機とされ、試技者としては、尾州の小野小左衛門をはじめ小川甚平、木村伊兵衛、今熊野猪之助等の名がみえ、文禄に入ると関白秀次も試みた。


かわって慶長(1606)一月には、松下野家臣・浅岡平兵衛が51本を通して『天下一』を称して、お堂に掛額したのを機に矢数を争うようになり、諸藩が名誉をかけて競う風習となった。

 

かわって慶長(1606)一月には、松下野家臣・浅岡平兵衛が51本を通して『天下一』を称して、お堂に掛額したのを機に矢数を争うようになり、諸藩が名誉をかけて競う風習となった。

 

江戸時代になると太平250年間に大いに流行し、大衆にもてはやされて、寛永19年(1642)には、江戸浅草に競射場としての三十三間堂が建つほどだった・・・・・。


寛文・貞亨年間の尾張紀州両藩の争覇は大いに庶民の評判を呼び、通し矢の黄金期を現出した。

 

一方、巷間では井原西鶴が『通し矢』にヒントをえて俳句の多作を競う『俳諧大矢数』を実演して評判を博した。

 

これほど盛況だった『通し矢』も明治28年(1895)の若林素行・通し矢4,457本の試技を最後に中絶した」と記載されています。

 

まさにこの通し矢、前述の紹介文にあるように個人の名誉だけではなく、藩の名誉もかけたまさに命がけの戦いの場にもなっていたのです。

 

つづく