昨日の続きです。
和佐大八郎はどうして現在の和歌山県田辺市にいたのでしょうか?
ここからは少し生々しい話です。
鳥居幸次郎という男が大八郎の妻にを恋文を贈ったと伝えられています。
それが露見して問題となった際、大八郎は鳥居幸次郎の侘びの言葉を容れ、大きな事件にしませんでした。
一部では自分の家臣に罪を押し付けたとも言われています。
何しろ敵討花やかなりし頃のことです。
当時としては、大八郎は幸次郎を斬って葉てねばならぬはずです。
また大八郎の兄半六というのがなかなかの策士だったそうです。
権勢松平甲斐守へ取りいって、利益を得たり出世をはかった行動はあまりに不正があったと言われています。
つまり「政敵」を多く作っていたのです。
どうやら大八郎はそのとばっちりをうけたようです。
ちょっと考えても、 大八郎が当時四十六歳とすれば妻も四十歳前後のはずです。
当時ではかなりの高齢になっているはずです。
恋はどんな状況で起こるか分かりませんが、私が思うに、何かの策略に引っ掛かったのではないかと考えてしまいます。
現在でいうハニートラップ的なものかもしれません。
しかしこの一連の経過が藩主の逆鱗に触れます。
武士にあるまじきことというので、お咎めを受けることになりました。
宝永6年(1709年)3月13日、安藤陳武に預けられ田辺城に幽閉されたのです。
正徳3年(1713年)3月24日、失意のうちに、病に罹り田辺城内の長ヶ蔵で死去。
享年51でした。
三十三間堂の通し矢は、幕末に至り経費が掛かる等の問題で規模も小さくなりました。
明治維新後は弓の兵器といしての役割も終えた事から江戸期のような熱狂さはなくなりました。
現在でも三十三間堂の回廊の上部や壁には天下一となった武士たちからの奉納絵馬が飾られています。
「紀州」からの奉納絵馬がとても多くて、少し誇らしい気持ちになったりします。
かつて命を懸けてまで通し矢を競い合っていた事を思いながら、三十三間堂を拝観するのも楽しいですよ。
今回のブログもずいぶん長くなってしまいましたが、興味のある方はぜひ三十三間堂に足を運んで頂きたいと思います。