昨日の続きです。
紀州藩内では通し矢に向けた人選が行われていました。
確かに、薗右衛門は、今から十八年前、寛文八(1668)年に7077本で“惣一”になった名人です。
しかし吉見台右衛門は今回は若い大八郎に賭けてみようと思っていました。
かくいう吉見台右衛門もまた、6343本も通し矢を行い、紀州藩士として誉れ高い“惣一”となった人物だったのです。
紀州藩は尾張藩に負けじと、三十三間堂をそっくり摸した紀堂まで建てて、記録更新に躍起に成っていました。
この紀堂でしごかれて見事、惣一を取り返したのも吉見台右衛門でした。
その後は一進一退の勝ち負けが続いていました。
壮絶な挑戦の結果、大八郎は総矢数1万3053本、うち8133本を成功させたというから驚きです。
具体的に見てみましょう。
1日24時間は86400秒で、86400秒➗13053本=6.619となります。
単純に考えても7秒以内に一回は矢を射っている計算になります。
超人的なまるでマシンガンのようなスピードです!
途中、大八郎が疲労で弓が引けなくなった時がありました。
見物人の一人が小刀で左手を切ってうっ血を取ってくれたのです。
そのおかげで大八郎は弓を再開することができたといいます。
その見物人こそが、記録保持者の星野勘左衛門だったという逸話も残されています。
この大記録により、大八郎は「天下惣一」の名誉を得ることになりました。
現在も和歌山に残る大八郎の遺品をご紹介します。
実は大八郎の使った弓矢が残されています。
一見するととても弓には見えません。
実際これを見た人たちは「天秤棒」のような太さだと感想を述べる人が多いようです。
(そうか!若い人たちには天秤棒がわからないかも^_^ )
例えば大人の男性の手首周り位の太さと考えてください。
ブログでもご紹介しましたが、弦を張るときには反対方向に曲げてから張るのですから、この弓の「恐ろしさ」がよくわかります。
また田辺市江川の浄恩寺には大八郎の墓碑があり、大八郎の末裔から譲り受けた豪弓も祀られています。
三十三間堂で使用したもののほか、練習用の弓も保管されています。
大八郎の大記録以降、通し矢の記録は更新される事はなかったそうです。
しかしここで疑問が湧き上がりませんか?
和佐大八郎はどうして現在の和歌山県田辺市にいたのでしょうか。
つづく