昨日の続きです。
今考えるとどうしてそんなことをしてしまったのか分かりませんが、あろうことか早速トルコ大使館にメールをしてしまったのです。
トルコ対日本の試合を見て、トルコの選手たちのフェアプレーの姿にすごく感動した、今後の試合もがんばって欲しいという内容のメールです。
そして、私の出身地も、串本町にほど近い町であることや、エルトゥールル号の話もよく知っていると少し書いておきました。
メールは出しっぱなしのつもりでした。
ところがです!
2日ほど経ってなんとトルコ大使館から返信が届いたのです!
今では本物のメールはもうありませんが・・・
「メールありがとうございました。
お書き頂いた内容を、トルコ代表のサッカー選手たちに必ず伝えます。」
というような内容でした。
本当に感激で心が震えました!
ワールドカップの結果は、日本を破ったトルコが次の対戦相手セネガルを倒し、3位決定戦で韓国を破り、見事3位となりました。
ちなみ優勝はブラジル、2位はドイツでした。
そしてこの話には後日談があるのです。
それはもうずいぶん前ですが、串本町大島の「トルコ記念館」を訪れました。
すると、職員の方が壁の上の方を指差して教えてくれました。
なんと、そこには日韓ワールドカップに参加したトルコの選手たちのサインが寄せられたユニフォームが飾られていたのです。
その職員の方の説明によると、額に入れられたユニフォームのガラス部分に海岸が映り込んでいます。
ちょうど海に向かってユニホームが飾られていたのです。
実は、そこに映り込んでいる海岸線こそ、エルトゥールル号が遭難したその現場だったのです。
(8年ほど前に内装及び展示物がリニューアルされたので、現在はこのユニフォームは飾られていません)
そしてこの話も忘れてはならないと思います。
※以下「トルコ記念館」資料からの紹介です。
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。
イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。
世界各国は自国民を救出するために救援機を出しました。
しかし、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ、空港にいた日本人は途方に暮れていました。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国です。
トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。
タイムリミットのわずか1時間前のことでした。
当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。
なぜトルコの航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからずにいましたが、後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
トルコと日本との関係はいろいろ深いものがありますね。
いろいろトルコについて思い浮かぶ事を書き連ねてしまいました。
最後に今回の地震でお亡くなりになった方に、心より哀悼の意を表したいと思います。
また、怪我や病気をされている方の1日も早いご回復をお祈りしております。
私も微力ですがお手伝いできることをしていきたいと思います。