昨日の続きです。
もしかしたら、今までちゃんと外交をしてこなかったことを、あるいは外交に失敗しているということを、多くの国民に気づかれたくない人たちがいるかも知れない、と。
僕はさらに自分の疑問を投げつける。
今、憲法改正の議論では、<国家あっての国民>という順番になっていますよね?
これってどう思います?
教授は眉をしかめる。
「う~ん、ファシズムは、経済的に貧窮した時代には、出てくることが多いよね。
もちろんナチスが台頭した時もそうだった。
国家に一番痛めつけられている人たちが、その国家を誇りと感じ、自らを犠牲として差し出すという構造が、悲しすぎる。
だけど、そういうことが起こってしまう。
それに支配層って、必ず上から下を見ているんだよね。それは絶対に間違ってるのにさ!」
・・・絶対に間違ってる?
僕はその一言が気になって、質問する。
「そもそも、教授にとって、国ってどう見えてるんですか?」
「国家って、貨幣と同じように幻想ですから」
「それって国家というものを信頼していないということ?」
「いやいや、国家を信頼している人も、そうでない人も、国家とは数字や貨幣などと同じ、人間の頭だけが作り出した幻想です。
実際はもともと民の生活があって、そこに俺たちが統治してやると主張する人たちが現れた、という順番だよね。
人類の歴史のなかで、国家が現れてくるのは、ずいぶん後になってですもん。」
「じゃあ、教授が『日本』って言うとき、それって国家としての日本じゃない?」
「少なくとも、国家の支配層が言うスタンスとは<逆>だよね、と思う。
ぼくは人が暮らしている、この実際の列島という土地、風土のことをまず考える。
彼らが言う『国』と僕の思う『国』が、どのくらいどこが違うのか、あまりに違い過ぎてよく分かんないや。」
どうも教授は、世界を「国家があって国民が存在している」というイメージでは捉えていないようだ。
おそらく日本に限らず、教授の頭の中での世界の捉え方は、「人々」がただそこにいて、そこに「国家」という人工的な線や枠組みが乗っかっていて、人が生きるための絶対条件ではないと思っているような感じがした。
これはなかなか島国日本だけに住んでいると分かりにくい感覚だ。
日本だと国家と領土と言語が通じるところが完全に一致しているので、国っていうものがまるで「しっかりしたもの」のように思いがちになる。
でも移民の街ニューヨークに住み、日頃からざまざまな国の人たちと触れ合っている教授には、<世界中のニュースがご近所のニュース>なのだ。
つづく