昨日の続きです。
ここで生まれたのが「シオニズム運動」だったのです。
「シオンの丘に帰ろう!」
「約束の地に戻ろう!」
「国なき民に民なき国を!」
という運動なのです。
全世界のユダヤ人たちの運動はだんだん大きくなりますが、それと相反するように当然のことながら様々な派閥を生み出します。
いつの時代でもどんな組織であっても人間の考えは大きく1つにまとまることが難しいようです。
ユダヤ人の中には一部過激派組織として変化していったものもあります。
彼らは実際にパレスチナでテロを始めました。
ある時、駐留していたイギリス軍が襲われ、幹部が殺害され吊るされるという事件が起きました。
本土のイギリス国民は非常に衝撃を受けたのです。
第二次世界大戦が終わり、ヨーロッパの国々は戦場となり大変な傷を負っていました。
イギリス自体も国力が低下し経済も厳しい状態が続いていました。
イギリス国民は、イギリスがいまだに中東に関与していることに反対の世論を挙げ始めます。
国民の世論は「イギリスは中東から手を引け!」と傾いていたのです。
そして、ついにイギリスは中東から撤退することになったのです。
そうすると、イギリスという重しがなくなります。
ユダヤ人テロ部隊の活動は、いっそう過激になり、エルサレムに向けてパレスチナ各地で紛争が起こるようになりました。
イギリスは国連にこの問題を丸投げしてしまいます。
当然のことながら国連も2000年間にわたる宗教の歴史や紛争の歴史も理解しており、この地域の難しさを充分わかっているはずです。
それぞれの地域の分割案を前提として国連は調査団を派遣します。
しかし、アラブ人からすれば土地を分けられること自体当然納得できません。
調査団派遣に抵抗するのです。
これに対して、ユダヤ人は調査団派遣を歓迎する立場をとります。
つまりパレスチナ分割を支持するのです。
ですから、国連の調査団に同行したのは、ほとんどがユダヤ人だったのです。
調査団はエルサレムはどちらのものでもないという基本的な立場でした。
そして、ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、1947年には「パレスチナの地に国をつくらせてあげましょう」という国連決議が採択されのでした。
パレスチナ分割決議
1947年に国連総会が採択します。
パレスチナの地を、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けたうえでエルサレムを国際管理下に置く。
当時、この土地のユダヤ人が占める割合は、全人口の3分の1だったが、56%の土地が与えられることになりました。
つづく