昨日の続きです。
シャボット医師は、後に英国医学雑誌の記者に「最終的な結論は自分で出した。人の生き死にについて、倫理委員会が多数決で決められるとは思えないから」と語っています。
シャボット医師が、A女史に「ご希望通りに自殺幇助をしましよう」と彼の決意を告げると、A女史は涙を流して感謝しました。
A女史の家にシャボット医師と友人の医師がついた時、彼女の親友はすでに来ていたが、妹夫婦はいませんでした。
シャボット医師は、A女史に「私たちは、ここに来たけれども、今でもあなたが死ぬ決意を変えることを願っています」と彼女の今の気持ちを確かめました。
しかし彼女の気持ちは変わりませんでした。
好きなバラの花で飾られた家の彼女の寝室で、睡眠剤を含む致死薬を配合したカプセルと水薬をシャボット医師から受け取りました。
準備しておいた半液状のプディングなどと混ぜて服用して、ベッドに横になり、ベッドの脇に置いてあった息子たちの写真にキスをして目を閉じたのです。
7分後には、A女史は意識を失い、さらに15分後には彼女の顔色が変わり始め、服薬後38分、A女史は親友の腕の中で息を引き取ったのです。
この日の正午頃に自殺幇助を実施する予定であることを通知してあった検死官にシャボット医師が電話しました。
すぐに駆けつけた検死官は、A女史の身分証明書と照合して、A女史であることを確認します。
次いで、シャボット医師の報告書を読んだ上で、立ち会った三人に質問をしてから、検察庁に報告して、埋葬の許可を得たのです。
検死官が帰った後で、シャボット医師がA女史の妹に電話すると、すぐに妹夫婦が駆けつけました。
実は、妹は、姉の死ぬところを見るに忍びないのと子供たちに伯母が自殺することを話していなかったのです。
これにより俗に言われる「シャボット裁判」が始まりました。
1993年の4月の一審では、検察側がシャボット医師に対して一年の執行猶予付きの実刑を要求しましたが、アッセン地方裁判所はこれを無罪としました。
1993年の9月の二審では、検察側がシャポット医師に対して6ヶ月の執行猶予付きの実刑を要求したが、レウワーゲン高等裁判所は、不可抗力による「緊急避難」を適用して無罪としました。
これに対して、検察は最高裁判所に次の理由をつけて上告したのです。
①A女史の苦痛は、肉体的な原因によるものではなかったので、死期は迫っていなかった。
②A女史は鬱状態であったので、自己決定能力に欠け、熟慮した上での自発的要請ではなかった。
③シャボット医師が意見を求めた専門医は、だれもA女史に会っていない。
1994年に入って、最高裁判所の相談役である検事総長がシャボット医師は罰せられるべきではないという内容の勧告を最高裁判所に出したのです。
つづく