昨日の続きです。
圧力隔壁について説明でしたね。
ところがこの日航123便は、1978年6月2日に大阪伊丹空港に着陸する際に機体尾部を滑走路面に接触させた事故を起こしています。
尻餅事故を起こしたときに、圧力隔壁の下半分が破損しました。
それでボーイング社が修理をしたのです。
ただ、その修理をするときに板を当ててリベットで止めるわけですが、その板の止め方というのがマニュアル通り行われておらず、弱い止め方をしていた。
修理ミスのL18接続部の断面図。
左が正しい接続で、右が誤った接続です。
右はスプライス・プレート(中継ぎ板)が2つに切断されて差し込まれ、その結果、3列に打たなければならないリベットが1列打ちと同じ状態となり、強度が大きく落ちたとされています。
そして、同じ飛行機を何度も使い続けるうちに亀裂が生じて、圧力隔壁が破断して中の圧力のかかった空気が一気に吹き出した。
それが尾翼の半分を吹き飛ばした。
さらには、油圧系統も破壊して123便は「アンコントロール」になってしまった。
というのが、事故調査委員会の「表向きの」説明です。
しかし、この事故調査委員会報告を疑問視する声が、いまだに湧き上がっているのです。
事故ではなく、事件ではないのかとの声です。
不思議なことやおかしいことが次々と起きていたのです。
墜落したのが18時56分で、まだこの時期ならば野外は明るい時間です。
これは私も記憶にあるのですが、墜落した時、テレビやラジオの報道で墜落場所が「不明」「どこに墜落したのかわからない」というような報道ばかりされました。
長野県のどこかと放送したり、群馬県だと報道があったり、非常に混乱していました。
次々に墜落場所の報道が変わったのです。
しかし、よく考えてみてください。
墜落したのは関東圏です。
直前まで、レーザーに捕捉されないなどということは考えられないのです。
例えば、太平洋の真ん中あたりで、こんな事故が起こればわかりにくいことがあるかもしれません。
関東でジャンボジェット機が墜落して、それがどこだかわからないなどということが果たして信じられるでしょうか。
結局、次の日の朝まで墜落場所が公表される事はありませんでした。
これは実に大きな疑問です。
実はその一夜に、恐るべき事態が起きていた可能性があるのです。
つづく